マタイ5・6聖書協会共同訳
義に飢え渇く人々は、幸いである/その人たちは満たされる。
私たちは、自分が正しいと思っています。でも、時代によって正しさはかわります。しかし、イエス・キリストの正しさはかわることがありません。
私たちは正しくなることはできません。正しさに飢え乾いているのです。そのような人が幸せだよ、とイエスはいうのです。当時は、律法という宗教の教えを守って、誰もが正しい者になろうとしていました。しかしイエスは、正しいものは幸いだ、とは言わないのです。正しくなく、義に飢え乾いている人が幸せだ、というのです。
自分が正しくないと思い悩んでいる人が、幸せなのです。しかし、そこで終わるのではありません。正しくないから裁かれる、とは言わないのです。神さまの正しさによって、満たされるというのです。
私たちは自分が正しいと、時に頑固になるときがあります。そのときに、他人と正しさのぶつかりあいになってしまうことがあります。正義のぶつかりあいです。しかし、正しいのはイエス・キリストのみです。
自分は正しい者になろうと必死になるのではなく、ただひたすら、神さまの恵みによって満たしてもらえるのです。そのときに、人は行いではなく、恵みによって救われることを知るのです。イエスは、不完全で弱い私たちを、あるがままに愛してくださいました。神さまによって愛されている自分を喜び、感謝して歩いてゆきましょう。
メモ欄
・義とは、正義・正しさという意味。
・正しさは時代によって変化するが、イエスの正しさは普遍性をもつ。
・義は、また、神さまとの関係による正しさ、という意味もある。
・真実に正しいのはイエス・キリストだけ。義に飢え乾くとは、正しさに飢え乾いている人。
・正しい人が幸いなのではない。自分が正しくないと思い、飢え乾いている人が幸いなのである。
・自分の正しさを追い求めることではない。自分は正しい人間にはなれないが、神さまにゆだね、受け渡す時に、イエスが扉をあけて心にはいってきて、心の中心に住んでくださる。
・詩編42・2-3では、「涸れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。」と書かれている。