2022年9月~12月、聖書のお話し


一番たいせつなこと(マルコ12章より)

彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。

マルコによる福音書 12:28‭-‬32 新共同訳


 1、神さまを愛する

目に見えない神を、どのように愛することができるでしょうか。それは、神様の言葉を聞くということだと思います。イエスは「イスラエルよ、聞け」といいます。旧約聖書で、イスラエルの民を導いたモーセも、申命記5章1節で

「イスラエルよ、聞け。今日、わたしは掟と法を語り聞かせる。あなたたちはこれを学び、忠実に守りなさい。」

と呼びかけました。イエスとモーセに共通しているのは、聞くということです。聖書を通して、イエスのぬくもりある言葉を通して私たちは神様の言葉を聞くことができます。

第一ヨハネの手紙の3章1節では、

「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」

とヨハネはいいます。

 私たちは、神様から愛されている神様のこども。聖書の言葉に耳をすますとき、私たちは、決してダメな存在ではないのです。しかし、神様の言葉を聞かなくなると、いくら神様から「あなたは神様の子供」と呼びかけられていても、「私は愛されていない存在」と、耳をふさいでしまうのです。自分と神様の間に、高い壁を作ってしまうのです。本来神様に愛されるために、特別なことをする必要はありません。様々な教えや掟を守ったら、はじめて神様の子供とされるなら、旧約聖書の時代に戻ってしまいます。今はイエスが来て、行いによってではなく、神様の恵みによって、「あなたは、かけがえのない大切な存在。あなたは、神様の大切な子供」というよびかけられている福音の喜びにあふれる世界に、私たちは生きています。イエスの十字架によって「あなたの罪は赦された」と、赦しの世界に生きています。まずは、神さまの愛をまっすぐ受け止めてよいのです。


 2、たとえこうでなくても

 私たちの世界では、ときどき「こうであらねばならない」と、決めてしまうときがあります。例えば「キリスト教徒は、こうであらねばならない。いつも、良い子でなければならない」というように、固定観念をもってしまうのです。律法学者たちも、イエスがきて、新しいイエスの教えを受け入れることはできませんでした。そんな頑ななファリサイ派の人たちに、

「だれも新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

  とイエスが言われたと、マルコによる福音書2章でイエスは言います。「これまでこうだったから、こうでなければならない」という思い込みが、心を堅くしてしまうのです。イエスは、いつも新しい心、幼子のようなやわらかな心で変化を受け止められるように求めているのです。「こうでなければならない」と、たくさん背負いこんでしまったら、重たすぎて動けなくなってしまいます。「こうであるべき」という重たい袋を捨て、イエスの言葉を新しい革袋にいれましょう。「こうでなくても、なんとかなる。」と思えば、神様はいくらでも道をつくってくださいます。

 人生は神様が導いてくださっている、という考え方があります。神さまを信頼する人の道は、どっちに転んでも、それは神さまが決めてくださった道。人間ができることは、「神さま、あなたにお任せします」と委ね、精一杯のことをすること。それが一番の安全策です。あとは、神様が一番良いように、道を造ってくださいます。神さまが造ってくださる道に、失敗はありません。自分が納得できないような道であったとしても、「これも、神様が創ってくださった道だから」と受け止め、感謝しましょう。前へ進むばかりではなく、時には人生立ち止まりましょう。今まで見えなかった道端に咲いていた花や、懸命に生きる鳥の鳴き声に、心洗われるでしょう。道端に咲いている花は、「人生、そんなに慌てなくていいよ。マイペースで大丈夫だよ」と言っている気がします。前へ進む事ばかりではなく、時には立ち止まると、見えてこなかった景色をゆっくり楽しむことができます。重たい荷物を背負っていたら、時々チェックして、荷物整理しましょう。身軽になって、人生の旅が楽しくなるかもしれません。


 3、思い通りにならなくても

自分の思いどおりにならなくても、イスラエルの民がモーセに従い、荒れ野の道を進んだように、時にはまっすぐいかなくてもよいのです。

神様は人生の道を遠回りさせることがあります。ゆっくり、神様が備えてくださった道を歩いてよいのです。もし疲れたならば、時には立ち止まってよいのです。

イエス自身も、荒れ野の中を霊によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられました。荒れ野の時間は、無駄な時間だとは、決していうことはできないでしょう。神様は福音宣教の準備のために、イエスに荒れ野での誘惑の時間を与えられたのです。神様は時に、私たちに、立ち止まる時間や、試練をあたえられます。試練のときは、はやく試練が通りすぎてほしいと願います。しかし、試練の時こそ、自分の限界を知り、謙虚になれます。自分の限界を知って、一人の力だけで、がんばる必要はないことを知ります。そう考えると、試練の中でこそ信仰は成長し、神様との関係が深まるチャンスの時かもしれません。

試練の時は、強がらず他人のサポートを受け入れてよいのです。神様の前で涙をながし、困ったことは祈りを通して相談してよいのです。イエス自身も、悲しみを経験されたとき涙をながされたと福音書に書かれていますし、ゲッセマネの園で、

「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」

と書かれています。イエスも私たちと同じように悲しまれ、時には憤りをおぼえ、涙をながされました。うれしいときは素直に笑い、悲しいときは素直に涙を流しました。自分の思いどおりにはいきませんでした。しかし、イエスは神様のみ心がなるように願いました。自分の未来は、「こうでなければならない」と計画するのではなく、神様が準備してくださった道を、どんな道であれ、感謝して歩めばよいのです。自分の願いではなく、神様の計画を信じ、それに委ねることが、神様の教えに耳を傾けることなのです。


4、弱く不完全な私たちでも

弱く不完全であったとしても、神様は私たちをそのままで受け止めてくださいます。

「もっとましな人間になったら」と、心配しなくてよいのです。

わたしたちの価値観では、神様を愛するとは神様の掟を間違えないで、誠実に守ることではないか、と判断してしまいます。当時のファリサイ派の人たちの気持ちもどこか分かるような気もします。

しかし、「自分だけ真面目に生きている」と自分の生き方に厳しい人ほど、どうしても他者に厳しくなってしまいがちです。そして、弱い人を探しをしてしまうのです。イエスの過ごしていた時代も、職業や病気のゆえに、罪人という評価をされ、会の片隅で生活していた人たちがいました。神様を愛するとは、神様の教えに従うことに間違いはありません。ファリサイ派の人たちが間違っていたのは、人間が裁き主になってしまい、他人の弱さを憐れみ隣人を自分のように愛することを忘れていたことです。

「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」

と、イエスはいいます。神の掟とは、愛の掟です。人を裁くためではなく、隣人を自分のように愛するためにあるのです。イエスは、弱くて欠点だらけの一人一人を、それでもかけがえのない存在として、見つめました。神から愛されている自分を愛し、同じように神から愛されている隣人を、自分自身のように愛する。この掟の中に、私たちの幸せがあるのです。

私たち一人一人は、ユニークな存在として創られました。ユニークとは、特別で価値のある、という意味です。私たち、一人一人は違った個性を持っています。それは、母親のお腹に宿ったときから、それぞれ違った個性がある存在として作られるように、神様は決めていたのです。内向的な人もいますし、外交的な人もいます。神さまは、そのように一人一人に個性を持たせて、造られました。みんな違って、みんな素敵なのです。今の自分を見て、「こんな私で本当に良かった」と喜んでいいのです。私たちにできるのは、神さまに「ありがとう」と感謝を伝えることです。神さまも「あなたと一緒にいられて私は嬉しい」と愛を伝えてくれるでしょう。今日も、自分自身にワクワクし喜び、楽しみ、自分の花を精一杯咲かせましょう。そして、神様が与えてくださった隣人をそのままで喜び、隣人を自分のように愛することができるように祈りましょう。


やもめの献金

マルコ12章35~44


1、イエスの悲しみ

イエスは教えの中で

律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

と言われました。

このような者たちは裁きを受けるとは、イエスにとって、どうしても弟子たちに気をつけてほしかったのでしょう。気をつけることは相手を上から見下す傲慢です。神様に作られた命でありながら優劣をつけて威張ることを、イエスは悲しまれたのです。すべての命は神様に作られた、かけがえのない存在。わたしたちにできることは、相手を見下ろすのではなく、神様に作られた同じ大地のうえで、自分の命を大切にし、隣人の命を大切にすることでしょう。出エジプト記22章21節には「寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。」とあります。

申命記24章21節では

「ぶどうの取り入れをするときは、後で摘み尽くしてはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい」

とあります。自分ですべて独占するのではなく、困っている方に残して収穫できるようにしなさい、というのです。やもめの人たちは、寄り添ってくれる仲間と出会い「私は1人でない」と確信し、必要な支援をうけてわかちあってすごしていました。イスラエルの民は、やもめの人たちを忘れずに、共にいきる存在だったのです。


2、使徒言行録

使徒言行録6章には、やもめの人たちの世話をめぐって一つの問題が起きていました。

そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。

「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。

教会では、ギリシア語を話すユダヤ人がふえてきました。ギリシャ語を話すユダヤ人というのは、外国で生活し晩年は聖なるエルサレムで葬られたいと思い、外国からエルサレムにきていたそうです。

キリスト教徒が増えるなかで、やもめの人たちが軽んじられるような場面が出てきたのです。そこで、12弟子は役割分担をしました。み言葉に専念する者と、生活を支えるグループとに別れたのです。

初期キリスト教会では、1人で「あれもしなければならない、これもしなければならない」と思いませんでした。自分たちの限界を認めて、得意な分野で仕事を分担したのです。どちらの仕事が優れているかは、優劣はつけられないと思います。

しかし心のゆとりを失ってしまえば、他人を思いやる元気も失ってしまいます。他人を愛するためにも、1人で抱え込まずわかちあえばよいのです。初期キリスト教会は同じになるのではなく、神様から与えられた自分の役割を分担しました。みんなにゆとりが生まれ、奉仕する方もゆとりができ、笑顔がふえたことでしょう。やもめの方にも、必要な援助が届いたと思います。


3、やもめの献金

そんな中で、ある貧しいやもめの献金の記事がでてきます。彼女は生活費の全てを神様に捧げました。当時イスラエル神殿には、婦人の庭とよばれる場所がありました。イスラエルの女性は、そこまで入れました。

庭には13個の献金箱がありました。ラッパがついていて、お金をいれると音が周りに響くようになっていたそうです。1クァドランスとは、現在の価格でいえば約150円くらいです。当時のローマの公衆の浴場が1クァドランスでした。神さまは愛のない数億円より、愛のある百円を喜んでくださる方。私にはたいしたことができない、とあきらめる必要はありません。

神さまに与えられたもののなかで、自分ができることを神さまにするとき、どんなに小さなものであっても、神さまは小さなことを喜んでくださるのです。彼女には、たとえ自分の持ち物が空っぽになったとしても、神さまが助けてくださるからなんとかなる、という信頼があったのでしょう。しかし、この女性がその後どうなったのか、私は気になりました。食事は大丈夫なのか心配になりました。

この献金をささげた女性も、もしかして、サポートしてくれる仲間たちがいたのではないか、と思いました。

そう考えたら、彼女の表情はくもっているのではなく、喜びにあふれ、すがすがしさにあふれていたのではないか、そのような光景がみえました。このやもめは、一人でなにもかも抱えこまないで、「あれもなければ生きてゆけない、これもなければ生きてゆけない」と心配しなかったのだと思います。仲間を信頼し、神様を信頼したとえ何も持たなくても神様は全てを準備してくださる方であると安心していたのだと思います。

人はときに未来を心配します。そして、自分の思いどおりになってほしいと願います。しかし、自分の思いどおりにならないときがあります。どんな道であっても、神様が必要だと思って与えてくれたものだと思います。神さまが準備してくださった道なら、どんな道でも感謝してよいのではないでしょうな。失敗や困難さえも、神様はわたしたちの成長のために与えてくれた宝物だと思います。

現代は者にあふれ、広告やコマーシャルが次から次へと流れてきます。しかし、新しい物を手にいれても、次から次に、欲しいものが増えてゆきます。人はどんなに物が溢れていても幸せにはなれないと思います。かえって物をもてば、不自由になってくることもあります。また、わたしたちは色々に要求されることがあります。「あれもしなければ、これもしなければ」と振り回されてしまいます。そしてしばしば、「私はつまらない人間だ」と勝手に評価をしてしまいがちです。

やもめの女性は、150円など神さまは喜ばれないだろいとあきらめませんでした。小さなものでも神さまは喜んでくださる、神様に感謝したいキモチが彼女にはあったのでしょう。

彼女には「神様の恵みは、私に十分だ。今日も愛されているからそれだけで満足だ。神様に感謝するために、なにかしなずにはおられな」と献金したと思います。

彼女は、私たちに必要な物は与え、必要でない物を取り去る方であることを知っていたと思います。「あれは絶対に必要だったのに」と心配する必要はありません。「あれもなければ、これもなければ」と欲張っていると、神様は良い物を与えようとしているのに、受け取ることはできないのです。執着から手を離し「神様は今度は何を与えてくださるんだろう」と楽しみに待っていましょう。神様は必要なものだけを必ず与えてくださる方です。

背負う荷物も、なにもかも背負う必要はありません。あまりにも背負いすぎていたら、重たくて潰れてしまいます。本当に必要なものだけを整理して、身軽になって背負ってゆけばよいのです。初代キリスト教会がしたように、1人で全てを抱え込む必要はないと思います。神さまが自分に与えてくださった賜物を見極め、神さまに聞いてみましょう。「神さま、私には何ができますか」と神さまの御心を問う時、神さまは必ずしらせてくださいます。寝たきりで動けなく、その場で祈ることしかできない療養中の方、闘病中の方もいます。たとえ寝たきりになっても、神さまに祈り、誰かのために祈ることも、かけがえのない奉仕の一つです。賜物に優劣はつけられなく、一人ひとりがかみさまの宝物です。時には、祈れない時もあるかもしれません。そのときは、誰かに祈ってもらえばよいのです。協力してもらえばよいのです。

パウロは、ローマの手紙8章で

同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。

と書いています。もしかして、パウロにも悲しみが大きすぎて、祈れない時期があったかもしれません。言葉がでないときがあったかもしれません。しかしその時は、聖霊がとりなしをして祈ってくださった、仲間が祈ってくださった、そうやって、乗り越えてきたという経験があったのでしょう。祈り、祈られて歩む力が、キリスト教会に与えられていることを感謝したいと思います。


2022年10月

裏切ったイエスの弟子たち


一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。 そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、 彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」 それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。 イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

マルコによる福音書 14:32‭-‬38‭, ‬40‭-‬42 新共同訳


1、弟子たちの裏切り

弟子たちが、オリーブ山で「イエス様、あなたを裏切ることはしません」と強がりますが、イエスに裏切ることがばれてしまいます。このオリーブ山の出来事を読むたびに、自分たちの弱さを思い出したことでしょう。もし履歴書を書くとすると、弟子たちの誰もがイエスを裏切る失敗を犯していたことが記されていたでしょう。弟子たちは、自分の過ちをおそらく誰かに告白したのでしょう。過ちを、自分の心にだけ隠さなかったのです。福音書の記者たちは、口から口へと口伝伝承で伝わってきた弟子たちの失敗を聞き、それを正直に記しています。初期の教会の指導者的な立場にあったペテロも、人がもつ弱さから、抜け出せませんでした。それはなにも、ペテロやイエスの弟子だけではありませんでした。神さまに、福音宣教者として用いられたサウロ、のちのパウロも、教会を迫害する者でした。クリスチャンであったステファノという人物を殺害することに、パウロは賛成していたと、使徒言行録8章1節に書かれています。パウロは、イエスと出会う前には、正義感と律法を守る熱心さから、クリスチャンたちを攻撃していました。「律法に定められているから、神を信ずるものはこうでなければならない」と規則を決め、その規則で人を裁いてしまっていたのです。パウロは、クリスチャンたちを見て「自分は規則を守っているけれど、あの人たちは守っていない。わたしは正しいけれど、あの人たちは間違っている」と考え、裁いていたのです。

しかし、パウロは、イエスと出会いクリスチャンとなります。初期教会のクリスチャンたちは、パウロを責めることができたはずです。なぜなら、一人の死刑に賛成し、多くの人たちを傷つけたからです。使徒言行録9章26節には、「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。」と書かれています。パウロは、人々から恐れられていた、怖い人物だったのです。ステファノの家族の人たちは、パウロを赦せなくても仕方がないことでした。しかしクリスチャンたちは、パウロの過去や罪を赦したのでしょう。赦された経験をしたパウロは、エフェソの信徒への手紙で「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」と、赦しを伝える者になりました。パウロにとって、ただ神様を愛するだけではなく、人間と人間が赦しあうことを伝えることも、キリスト教徒の使命だとみていました。第2コリントでは、「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」とパウロはいいます。神と人、人と人の和解を、神様から与えられた使命として考えていました。弟子たちの使命は、誰一人としてゆるされないまま残る人がいないように、すべての人に神の愛を伝え、すべての人を神との和解に導くことでしょう。


2、イエスの赦し

イエスの死後、命惜しさにイエスを置き去りにし、逃げ出してしまった弱さを弟子たちは痛切に反省していたことでしょう。部屋に鍵をかけて、外が恐く、とじこもっていたことでしょう。 神は、そんな弟子たちに「あなたたちの弱さも含めてわたしはゆるし、受け入れている」と、なんとしてでも伝える必要がありました。

復活したイエスは、弟子たちに「平和があるように」と伝えます。イエスには、自分を裏切った憎しみなど、ありませんでした。神は、わたしたちの弱さ不完全さを知りながら、それでもわたしたちをゆるし、愛してくださる方。優れた行いによってではなく、たとえ何も出来なかったとしても、私たちを神様の子供として愛してくださる方なのです。

 裏切ったことは残念なことでした。しかし、弟子たちは赦される経験を通して、涙をながし、福音宣教者として用いられる準備を神様は備えてくださったのです。

弟子たちは、神様に赦される体験が必要だったのです。そうでなければ、自分の知識や知恵を頼りに、強引な手段で福音宣教をしていたかもしれません。聖霊の力に頼らず、自分の行いを重視し、イエスが宣教した福音とまったく異質な教えが宣教されていたかもしれません。そして、律法学者やファリサイ派と同じく罪を犯した人の弱さに共感できずに、「あなたは、罪人」と裁いていた宗教集団になっていたかもしれません。そうであれば、イエスの願われた、互いに赦しあい、互いに愛し合う使命を果たせなくなります。


3、自分の小ささ

弟子たちは、神様に徹底的に赦される体験が必要でした。弟子たちは赦され、もう一度やりなおす力が与えられました。

「私は赦されない」と嘆くのではなく、「こんな私でも、神様によって赦されるんだ。あなたも、神様に赦される大切な存在」と宣教していったのです。弟子たちは赦され、自分を赦すことができました。時に自分を赦すことができない時、他者も同じように裁いてしまうことがあります。不甲斐ない自分を認めることができず、理想の自分を演じてしまうことがあります。

しかし、失敗した弟子たちが赦されたように、イエスは弱い人間を、正面から受け止めてくださいます。「神様の赦しが信じられない」とき、自分を責めてしまうことがあります。自分を赦すことが難しい時があります。なぜ、わたしたちは自分で自分を裁き、苦しめてしまうのでしょう。それはきっと、その人の中に、「今の自分ではだめだ、もっと優れた自分にならなければ生きる価値がない」という思い込みがあるからでしょう。それは、大きな誤解です。神様は、たくさんの弱さや罪深さを抱えたわたしたちを愛して下さっているからです。わたしたち人間は、誰もが弱くて罪深い存在にすぎないけれども、それでも神は愛してくださるのです。

わたしたちの心の中には、自分は自分の力で今よりもよくなることができると思いがあります。しかし、人間をまっすぐ見つめれば、どんなにがんばっても弱さや罪深さを克服できない、それが現実なのです。自分の力では自分を変えることさえできないくらい弱くて小さな存在なのです。わたしたちにできるのは、自分の弱さ、小ささを受け入れ、神に助けを願うことだけです。


4、イエス様はは弟子を必要とする

イエスは12人弟子を必要としました。ルカによる福音書10章1節には、

その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。」

とありますから、72人もイエスから福音宣教をお願いされていたことがわかります。他にもっと沢山、男性も女性もイエスに従っていたでしょう。イエスは、多くの人たちの協力を必要としました。イエスは神であったので、一人で福音宣教をすることは可能でした。効率的にも、一人でやったほうがよかったのかもしれません。それでも、イエスは弟子を必要とされ、互いに支えあい、助け合う道を選ばれました。

福音宣教のさいも、一人で派遣しなく、二人ずつ行かせました。一人が怪我をしても、二人なら助け合えます。二人ならさまざまな困難でも協力して立ち向かえるのです。将来、どの弟子も自分から離れていく現実を知っていたことでしょう。それでもイエスは、弟子たちを信頼していました。なにもかも1人でする必要はないのです。一人でできないなら、二人ではじめてみればよいのです。

私たちが、互いに重荷を支えあうことは、イエスのみ心でした。いつも朝早く、静かな場所で祈られていました。会堂から会堂にいき、せっかちな弟子たちに教え、様々な人を癒すなかにあっても、イエスは祈りの時を大切にしました。

マルコ1章35節には

朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」

と書かれています。忙しい合間に、とても静かな時間が流れています。独りになれる所で、イエスは自分の思いではなく、神の御心に委ねました。自分の思い通りにいかなくても、神様の計画されていた道に従いました。ゲッセマネでは、イエスはひどく恐れ、祈っているときに共にいてくれる弟子たちを必要としました。イエスは、そばに誰かがいてほしかったのです。その中で、イエスは祈り、神様に委ねる決心をしました。イエスにならって、「未来はこうあるべき」と自分を縛るのではなく、「あなたにお任せします」と神に委ね、神様の愛された子供として歩んでゆけるように、祈りましょう。



心の貧しさのさいわい

「心の貧しい人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は、幸いである、 その人たちは慰められる。 柔和な人々は、幸いである、 その人たちは地を受け継ぐ。 義に飢え渇く人々は、幸いである、 その人たちは満たされる。 憐れみ深い人々は、幸いである、 その人たちは憐れみを受ける。 心の清い人々は、幸いである、 その人たちは神を見る。

マタイによる福音書 5:3‭-‬8 新共同訳


1、心の貧しさ

貧しいとき、自分の中にはなにもないので、誰かに頼るようになります。悲しいとき、誰かに助けを求めるようになります。誰かに頼ってばかりいてはいけない、と誤解してしまいがちですが、頼るからこそ、わたしたちは愛し合い、支えあうことができるのです。頼ってばかりいる自分をみたとき、「もっとしっかりしなければ」と焦ってしまいがちですが、自分の限界をしっている自分だからこそ謙虚になり、他人の弱さに共感できるようになります。自分の弱さを知り、手をたずさえて歩める人こそ、強い人なのです。

心は人間の中心です。中心が貧しいとは、神様の前でなにひとつ誇ることがないということです。人は人間を評価するとき、つい「あれができる、これができる」という視点から、考えてしまいがちです。貧しいより、豊かのほうが、色々なことができるし、可能性がふえます。しかし、イエスは、なにも誇るものがなくても、自分の限界を認め、謙遜に生きるほうが幸せだ、というのです。なにもできなくても、神様に助けられ、仲間とわかちあうほうが幸せだ、というのです。

神様に与えられたもので満足し、いまの自分に幸せを感じてよいのです。神様は、わたしたちをいつも愛し、美しく装ってくださっているのです。「こんな自分では、イエスに愛されない」と思うのは誤解でしょう。その誤解があるために、背伸びして自分を大きくみせようとしたり、愛されるために他人と競争して争うようになります。神様は野の花が精一杯咲いているだけで美しく装ってくださっています。人間も、自分の命を自分らしく精一杯生きているだけで、神様は喜んでくださるのです。

心はまた自分が中心でいたい。「全てを自分の思い通りにしたい」という欲望があります。自分を神とし、相手をすべてコントロールしたいと思うのです。しかし、自分以上の自分を演じることは、やがて疲れはててしまうでしょう。「自分の思った通りにならなくても良い」と認め、相手を受け止めるとき、心地よいそよ風が吹いてくるのです。人は、相手の性格や感性があり、変えることはできません。相手の小さな欠点を探すより、神さまに与えられた良いところを探す力。それこそ、たたえられるべき素敵な力なのです。自分の思い通りにしたい、相手をコントロールしたいというのは、心の中心に自分がいるから。心の中心に、神さまをお迎えし、神さまに導いてもらえばよいのです。心の中心に、神さまをお迎えするからといって、自分の性格や個性がなくなるわけではありません。かえって、神さまに委ねて、身軽になって自由になって歩むことができるのです。


2、心の清さ

心の清いものとは、人間の命をまっすぐ見つめられる人でしょう。相手にある欠点ではなく、神様に与えられた良いところを探すこと。心の清いものは、どんな人のなかにも、神様が作られた宝物をみることです。

イエスは、あなたがたは、互いに仕える者になりなさい、と弟子たちに教えられました。イエスは、自分から弟子たちの足を洗い、仕える姿を教えられました。イエスは弟子たちだけではなく、わたしたちの足も洗ってくださいます。綺麗なところだけではなく、汚い部分も、洗ってくださるのです。それほどまで、わたしたち一人一人を愛してくたさっているのです。わたしたちを受け入れてくださっている喜びが、仕える力となるのです。「上手に仕えなければならない」とプレッシャーを感じていたら、普段どおりの実力は発揮できないでしょう。

もし不安なら、こどもたちを考えましょう。小さなこどもたちは、なにもかもはできません。完璧にすることもできません。しかし、自分にできることを精一杯します。神様に与えられた賜物を使って、喜んでします。「あれもしなければならない、これもしなければならない」と焦ることはせず、自分にできることを精一杯するだけで充分です。1人で仕えるのが不安なら、互いに助けあえばよいのです。

たとえば、障がいを持っている人を支えるには、精神科医1人だけではたりないでしょう。日常の生活をサポートしてくれるスタッフさん、就労を支えてくれるスタッフさん、時には保健師さんや看護師さんのサポートもかります。沢山の方と助け合ったほうが、笑顔がうまれるでしょう。

また、仕えることだけではなく、体の調子が悪かったり、仕事がうまくいかないときは、他人の助けをえて、サポートされてよいのです。パウロはガラテヤ5章32節で

愛によって互いに仕えなさい」

と言っています。

1ペトロ4章10節でペトロは

あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」

と言います。互いにという言葉は、互いに仕え、困ったときは助けてもらう勇気をもちましょう、ということです。「わたしは、何でも1人でできますから、他人の助けを必要としません」と孤立しなくてよいのです。自分が困ったときは、イエスの弟子たちが互いに助け合ったように、他人の支えを信頼してよいのです。背伸びして強がる必要はなく、神様に作られた等身大の自分が一番です。

仕えるだけでなく、愛するときも同じでしょう。イエスは、「互いに愛し合いなさい」といいます。愛することは大切ですが愛される時間も同じくらい大切なのです。

神さまに愛される時間を感じられなければ、時には神さまの前に静まって、「私は神さまに愛されている」と確信しているのです。愛するだけで忙しいときは、愛される時間を持ちましょう。愛されるだけで忙しいときは、愛する時間をもちましょう。

心の貧しさをしり、自分の限界をしったとき、人は謙遜になります。自分が何ができないからといって、絶望する必要はありません。できないから、他人と助け合い、わかちあうチャンスのとき。自分をごまかさないで、清らかな心でまっすぐみるとき、どんなに弱くても愛してくださる神様の愛をみるでしょう。自分に注がれる神様の愛こそ、清らかさの源。「あれもしなければならない、これもしなければならない」と神さまに認められるために焦る必要はないのです。イエスは、たとえ心が貧しく、弱さを抱えていても「あなたで大丈夫。あなたは、愛されている神様の子供」とよんでくださるのです。焦っていては、イエスの声をききもらしてしまうでしょう。時には静かに立ち止まって、イエスの前で休憩し、エネルギーを養っていいのです。イエスは、わたしたちが何かできるから愛するのではなく、「あなたが、あなたであるだけ」で愛する方。

イエスの弟子ペトロは、漁をする網を捨ててイエスに従いました。網は自分の誇りであり、自慢できる技術を発揮できるものだったでしょう。しかし、それを捨てて、ペトロは従ったのです。たとえ、空っぽになったとしても、神様は生きていく上で必要なものを備え、満たしてくださる方。自慢できるものが何もなくても、イエスはわたしたちの存在自体を喜んでくださる方。網を捨ててイエスに従った弟子のように、身軽になって喜んでイエスに従ってゆきたいと思います。



野の花をみる

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。 命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。 烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。 あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。 こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。 野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。 あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。 それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。 ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。

ルカによる福音書 12:22‭-‬31 新共同訳


◼️命

今は自分の命や他人の命も、自分たちが判断してしまいがちな時代になってきました。自分の存在を「くだらない存在だ」と決めてしまうことがあります。しかし、一人ひとりは神さまが大切に造られた最高傑作です。人間は自分の考えがすべてだと思うと、自分以外の考え方に耳を傾けられなくなってしまうと思います。しかしイエス様は31節で、神の国を求めなさい、といいます。神の国とは、神様の支配する国で、神様のみこころが、なによりも優先される国です。神の支配する国は、自分の思いではなく、沈黙して、神さまの呼びかけをなによりよも大切にして生きることだと思います。では、どうしたら神様の呼びかに耳を傾けられるようになるでしょうか。

イエス様は、野に咲いている花や空の鳥に目をむけます。小さいけれど、神さまは野に咲いている花を美しく装ってくださいます。花たちは、足がないので動き回ることはできません。山奥に咲いている花は、だれからも見られることなく、散っていく花もあるかもしれません。しかし、神さまは一輪一輪の花を大切にしています。仕事や家事に追われ、鳥や花を見るために立ち止まっている暇などない生活をしていれば、心が荒み、将来への不安が生まれてくると思います。逆に、鳥や花をじっと見つめて立ち止まるゆとりを持ちさえすれば、すべての命に注がれる神さまの愛、この世界を満たしている神さまの愛に気づき、思い悩む必要などないことに気づくのではないでしょうか。

野に咲いている花をイエス様はみなさい、と言われました。野に咲いている花の特徴を考えてみたいと思います。まず、野に咲いている花の特徴は多様性です。神さまは様々な花をつくりました。わたしたち、一人ひとりは違いますが一人ひとりは神様に大切に造られた存在です。愛されるために、他のだれかになる必要はないと思います。神さまはタンポポをつくり、コスモスをつくりました。タンポポはタンポポの花を咲かせ、コスモスはコスモスの花を咲かせます。わたしたち一人ひとりも、神様に造られた自分の花を咲かせるだけでよいのだと思います。たしかに、人はできることや、できないことがあります。完璧な存在はいなく、なにもかもできる人はいません。パウロが言ったように、人間にすぎないのです。しかし、力をあわせ助けあえば、美しいことを作りあげてゆけると思います。

次に、野の花の特徴は、ゆっくりということです。チューリップは冬の寒さをたえて春に美しい花を咲かせます。チューリップの球根に「急いで花をさかせてください」と言っても、咲かせることはありません。神さまが与えられた時間のなかで花はゆっくり育ち、時期がきたら咲きます。神さまが造られた時間のなかで、なにごとにも時期があり、待つときがあることも教えられます。なにごとも慌てる必要はなく、「自分にできることは精一杯して、あとは神様に委ねていよう」と神さまに信頼し、ゆったりと構えている大切さを花たちから教えられると思います。

野の花の第三の特徴は、神様の恵みによって命が支えられていることです。イエス様は24節で、神さまが全面的に命を支えてくれている事実を伝えています。人もひとり一人異なりますが、神様によって緻密に計算され、たいせつに造られました。他人と比べて、つい自分が小さくみえそうになるときがあり、「こんな私はだめだ」と評価してしまいそうなときこそ、野に咲いている花をみたいと思います。「私も神様に大切に造られ、愛されている」と感謝する時間が、人には必要ではないでしょうか。どれほどたくさん業績を上げ、人から評価されてもまだ足りないと感じ、さらなる業績、さらなる評価を求めて走り続けてしまうなら、くたびれてしまうと思います。立ち止まって小さなことでも感謝する時間があれば、人は幸せになれると思います。


◼️律法主義

しかし、人は神様の恵を忘れ、自分たちの行いや、律法によって救われようとしがちです。イスラエルの民たちは、生活のすみずみまで神様に喜ばれるために律法で生活を規定しました。最初はとても純粋な思いだったと思いますが、守れるうちは良いのですが、病気になってしまった人や、失敗して罪を犯してしまった人を罪人と呼び、排除してしまいました。神さまが求めているお互いにあいしあい、ゆるしあう教えを忘れ、お互いに監視し相手の欠点をあばこうとする社会になってしまいました。

神様の愛を確信できないので、「あれもできなかった、これもできなかった。こんな自分じゃだめだ」と不平不満が産まれてしまうと思います。しかしイエス様は、思い悩むな、と言われます。心配するとも翻訳できるそうです。思い悩みとは、どうしても自分に頼ってしまうことからうまれると思います。自分を頼りすぎると、自分以外の声が聞こえなくなり、神様の恵みを忘れてしまいがちになってしまいます。まじめな人ほどこの傾向が強く、「もっとしっかりしていなければ」とか「完璧でなければ愛されない」と思ってしまいます。

イエス様は、疲れたものや、重荷をおうものにもっとしっかりしなさい、とは言われませんでした。イエス様は休ませてあげようと言われました。イエス様は、わたしたちが心配ごとや、疲れをかかえているとき、休ませてあげよう、と呼びかけてくださる方です。それは一人でかかえこまなくてもよいということだと思います。耳をとざしていると、イエス様の「休ませてあげよう」というよびかけにも心を閉ざしてしまいます。金持ちの男が、神様にいかされていることを忘れ、自分の殻にとじこもってしまったことに似ています。しかし神さまはわたしたち一人ひとりに、「あなたは大切な存在」と確実に呼びかけてくださるのです。「完璧でないと神さまから愛されない」という思いこみも、それは自分の作りだした人間の思いであって、神様の思いでないと気づきます。空の鳥は、種もまかず、刈り入れもせず、倉も持ちません。しかし、神さまはそんな小さな鳥たちを養ってくださいます。この鳥は、具体的にはカラスをさしています。カラスは雀のように値段もつかず、レビ11:15、申命14:14では、汚れた鳥として規定されていました。しかし、イエス様はそんなカラスにも神様の愛のなかにあり、忘れられていなく、養われて生かされている存在であることを伝えています。人も、空の鳥のように神様の愛のなかにおり、神さまは「あなたで良かった」と喜んでくださり、「あなたには価値があるではないか」とよびかけてくださるのです。


◼️飾らなくてよい。

イエス様は、「心配しなくてもよい」と呼びかけてくださいます。小さな野の花を美しく装ってくださるように、神さまは一人ひとりを喜んでくださるのです。イエス様は27節で「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」といいます。働かないとまでイエス様は花に対していいます。紡ぐとは、糸を作ることです。そんな小さな花たちでも、豪華に飾っていたソロモン王より美しい、とまでいうのです。人は、色々なものをつけくわえて、複雑にしてしまうことがあります。しかし野に咲く花たちは、とてもシンプルで、神様に造られたままを生きています。イエス様は、ソロモン王のように自分を飾るよりも、神様に造られた飾らない野の花のほうが美しいといわれます。神様に信頼し、神様の支配を心の中心にするとき、たとえ自分の思いどおりにならなくても、神様の導きを信頼できるようになります。神の国とは、神様が支配する国です。それは、人を不自由にし、窒息させるような支配ではなく、神様の心が大切にされる支配です。神さまは愛なので、神様の支配とは、神様の愛に支配されることだと思います。

金持ちの男のように、大きな倉を用意しなければ、どうしようと心配する必要はないのです。一人でなにもかも背負うと、人ですので、重たすぎたら疲れてきてしまいます。しかし、一人で豊かになったり、荷物を背負う必要はなくなりました。互いに荷物を抱えたら軽くなりますし、必要最小限だけあればシンプルになって楽になります。社会の価値観は、「もっと強くなったり、豪華になったらあなたは神様に愛される。今の自分では価値がない」と誘惑してくるかもしれません。私たちが「明日」のことをばかり考えているとき、最も見失ってしまっているのは、「いま」という瞬間です。「いま、ここ」に生きている私を感じとることができなくなることが数多くあります。

「明日」の私たちではなく、「昨日」の私たちでもなく、いまこの瞬間この場所に生きている私たちに向かって、イエス様は「あなたがたは価値あるではないか」と語りかけられています。この価値ということばは、フィリピ1章10節で、「本当に重要なことを見分けられるように。」という箇所でも使われています。様々な情報があふれるなかで、イエスさまの声にミミをすますとき、本当に重要なことを見分けられるようになると思います。明日が心配なときは、道端で小さくても精いっぱい咲いている野の花や、懸命に生きる鳥たちを養っておられる、神様を思い出したいとおもいます。神さまが造られたあなたは、野の花といっしょで、今日美しい存在なのです。


2022年11月

モーセ

それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」

旧約聖書

出エジプト記 4:10 新共同訳


1、モーセの失敗

モーセは、40歳くらいのとき、一人のエジプト人を殺してしまいます。衝動的にやってしまい、モーセは「なんてことをしてしまったんだ」と、自分を責めたことでしょう。モーセは王様の手を逃れるために、ミディアン地方に逃れてゆきます。ミディアン地方とは、エジプトから直線で400km くらい離れた場所で、現在のサウジアラビアの西部あたりの地域です。モーセは、その場所で結婚し、二人の子供をもうけました。


2、モーセが80さいのとき

不安や迷いを抱えながらモーセは、ひっそり暮らしていたことでしょう。80歳くらいのとき、神様からイスラエルの民たちを救いなさいという召命をうけます。しかし、出エジプト記4章10節には、モーセは主に

「わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」

と言ったことが書かれています。どこか自信はなく、過去の自分の犯した罪が、罪責感として苦しめていたかもしれません。モーセは、

「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」と、神様の召命から逃げようとします。そんな彼に、神様は「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。その彼が今、あなたに会おうとして、こちらに向かっている。あなたに会ったら、心から喜ぶであろう。彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。」と、兄であるアロンをサポート役として与えます。神様は、1人で頑張ってやりなさい、とは言わない方。いつも、苦手な箇所をサポートしてくれる仲間を与えてくださるのです。神様は、モーセの頑なさに怒りを示されましたが、モーセが弱音をはいても、モーセの弱さを受け止めたことには驚きです。普通なら、神様の前で変わらないといけないのに、神様のほうが、譲歩してくださったのです。神様は私たちが困らないために、様々な道を備えてくださいます。1人でできなくても、手をとりあい、力をあわせれば、道は広がります。モーセは、過去の自分の罪と、口下手なことに、自分の弱さを感じていたのでしょう。人は、神様の前で、強い者のみが用いられると誤解しがちです。しかし、神様は臆病であり、過ちを過去に犯してしまった逃亡者モーセさえ、神様の使命のために用いてくださったのです。もうどうにもならないときは、自分で「こうであるべき」と、勝手に決めてしまっている時。「こうであるべき」という理想を捨て、神様に委ねるとき、神様は道をいくらでも開いてくださるのです。過去がどうであれ、それでおしまいではないのです。神様は、どんな過去であれ私たちを赦し、モーセのように、新しくやりなおす事ができるのです。神様の愛に信頼するとき、自分も神様の使命を果たすことができる、自信がわいてくるのです。


3、待つ時間

モーセはシナイ山に昇り、十戒の石版を授与されるために、40日間の期間が必要でした。モーセがなかなか戻ってこなく不安を感じた民たちはアロンに「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と頼んだことが、出エジプト記32章に書かれています。アロンは指導者として、注意しなければならないはずなのに、民たちの頼みに負けてしまいます。アロンは、「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。」と民たちにいいます。アロンはそれで、金の子牛像を作ります。アロンたちは、神様に背き、偶像礼拝の罪を犯してしまったのです。民たちには、待つということができなかったのでしょう。荒れ野の道ですから、民たちは、早く目的地につきたかったはずです。同じ場所に何日間もいたら、「この先どうなってしまうんだろう」と不安になってきたはずです。しかし、神様は前に進むばかりではなく、立ち止まる時も与えてくださる方。「あれもしなければ、これもしなければ」と焦るだけでは、自分ができることさえできなくなります。

明日のことは心配せず、自分の限界を謙虚に認め、できることを仲間と助けあってしてゆくこと。決して焦らなくてよいのです。神様は、イスラエルの民たちを40年という時間をかけて約束の地に導きました。早くしなければと自分の力を頼り、心をすり減らすことはしなくてよいのです。どんな道も神様が必要だと思って与えてくれた道。

「自分にはもっとできるはずだ」というのは、隠れた傲慢。どんなにがんばっても、人にはできないことがあります。イスラエルの民たちも、自分たちの限界を認め、モーセが戻るまで神様を信頼していればよかったのです。

モーセが山からおり、偶像礼拝している民たちをみて、激しく怒り、手に持っていた十戒の記された板を投げつけ砕きました。モーセは、神様に赦しを願いシナイ山に登ります。再びら40日という待つ期間が必要でした。神は先に急ごうとする私たちに、待つ、という備えの時を与えてくださいます。

神様は、それでも頑ななイスラエルの民を導きます。弱く不完全な私たちも、一人一人はそれぞれ異なる歩みをなしています。しかし神様にとっては、一人一人は必要で生きているだけでかぎりなく尊い存在です。


4、アロンの失敗

アロンの失敗はこれだけではありませんでした。モーセには、姉にミリアムがいました。ミリアムとアロンは、

「モーセがクシュの女性を妻にしていることで彼を非難し、モーセはクシュの女を妻にしていると、批判したことが、民数記12章1節に書かれています。

クシュの女性とは、ヘブライ人からみて外国人でした。しかし、ミリアムとアロンの本当の不満は、民数記12章2節に書かれています。それは、

主はモーセを通してのみ語られるというのか。我々を通しても語られるのではないか。」

ということです。

アロンとミリアムは、いつも第2、第3の立場に置かれていて、それが不満だったのです。なんで自分たちを通して、神様は働いてくれないのか。弟のモーセだけが神様に特別に大切にされ神様に用いられていると誤解していたのです。

アロンには、モーセより雄弁な賜物が与えられていました。一人一人の役割は異なるのです。アロンはそれを忘れていました。他人と比較して「私はあの方より、賜物が与えられていない」と落胆する必要はないと思いました。

アロンとミリアムは、もっと神様に作られた自分を喜んでよかったのです。私たちも一緒です。他人の賜物を素直に喜び、自分に与えてくださった賜物を素直に喜んでよいと思います。

一人ひとりは、神様に愛された存在として作られました。神様の愛がたっぷりつまった命を感謝し、互いにたすけあってゆきたいです。


やりなおせるよ

ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

新約聖書

ルカによる福音書 23:32‭-‬33‭, ‬39‭-‬43 新共同訳


1、憐みを求めて

罪を犯しても、神にたちかえる(悔い改める)人をイエスは赦し、イエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。

どんな失敗を犯しても、イエスに帰るとき、罪は赦されるのです。この人は、

「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」

と憐れみを求めました。人の弱さゆえに、失敗してしまった時や、「私は赦されない」と殻に閉じ困らなくてよいのではないでしょうか。神の慈しみを信じて、「私を思い出してください」と求めるとき、イエスはわたしたちを必ず赦してくださるのです。


2、神をおそれる

しかし、もう1人の犯罪人は自暴自棄になって、イエスをののしります。もしかすると、「もう人生は終わったんだ」と絶望していたのかもしれません。

二人の犯罪人の違いは、神様をおそれる、ということだと思います。神へのおそれを忘れるとき、自分自身が神になります。

自分の人生も自分の思い通りにしたい、と思います。自分の計画と違うことがおこったらパニックになるのです。それは、自分の人生は、自分の所有物だと思い、独占してしまうからだと思います。

絶対に「こうならなければならない」と自分の人生を縛ることから解放されると、肩の重荷をとれたように感じます。

神を恐れるとは、神さまが自分の人生の中心におられ、この人生も、神さまが導いてくださることを信ずることでもあると思います。

箴言16章9節では

人間の心は自分の道を計画する。

主が一歩一歩を備えてくださる。」

と書いてあります。人ができることは、「あれもこれもしなければならない」と焦るのではなく、神さまに与えられた一歩一歩を、感謝して、受けとることだと思います。神さまは、一人一人に最善な道を作られます。幼子のように、神さまの導きを信頼することを、神さまは求めておられるのではないでしょうか。

信仰生活の歩みは、神を恐れるということだと思います。それは、神さまに対してビクビクしたり、恐怖を感じることではありません。むしろ、自分自身は弱く、限界を抱えている存在であるのにもかかわらず、神さまはそれでも愛してくださることを信じ、神さまの愛の大きさに驚くことであると思います。

また、

箴言1章7節には

主を畏れることは知恵の初め」

とあります。主を畏れることは、神様の言葉をまげないで、まっすぐ聞くということだと思います。イエスは、ルカによる福音書23章34節で、

父よ、彼らをお赦しください。

自分が何をしているのか知らないのです。

と祈りました。イエスは、わたしたちの赦しのために祈られました。まっすぐ聞くとは、疑わずにイエスの愛を受け止める、ということだと思います。


3、罪びとのまま終わらない

人は確かに罪人ですが、罪人のまま終わらないのです。それは、イエスがわたしたちを愛され、赦しを与えてくださるからです。「自分は神の前で赦されない」と思うのは謙遜ではなく、実は傲慢かもしれません。なぜなら、神さまに赦せない罪など存在しないからです。どんなに信じられなくても、イエスの赦しを受けとることが真の謙虚さではないでしょうか。「こんなわたしが、やり直せるはずがない」と勝手に決めつけて、福音を拒んでしまう必要はないと思います。神様は悔い改めた者を、もいつからでもやり直す力を与えてくださる方です。悔い改めは、遅すぎる、ということはありません。悔い改めた犯罪人は、死という直前に悔い改めました。

「さすがに遅すぎないか」

と、人は思ってしまうかもしれません。どのような犯罪を犯したのかはわかりませんが、もしかして、他人の命を傷つけたり、法律にふれたのかもしれません。

しかし、イエスの前で手遅れはありませんでした。犯罪人は、イエスに差し出したのは憐れみを求める言葉でした。

「私は良い行いをしていないし、他人を傷つけてしまった。私は赦されないんだ。もう終わりだ」とみるのではなく、イエスに希望をみいだしました。

イエスは、わたしたちにも、どんな失敗を犯しても新しくやりなおす力を与えてくださる方です。たとえ間違いを犯してしまっても、それで終わるわけではありません。


4、イエスに委ねて

人は、1人では抱えきれない荷物を背負うことがあります。心が辛いとき、つい自分がしっかりしていなければ、と追い詰めてしまいます。そんなわたしたちに、イエスは「1人で無理をしなくていいんだよ。憐みを求めなさい」と、声をかけてくださるのです。

憐みを求める人として、私はマルコ10章にでてくる、盲人で物乞いのバルティマイを思い出しました。その箇所を読んでみます。

一行はエリコに来た。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出られると、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫び始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、私を憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」


人々が黙らせようとしたバルティマイでしたが聞く耳もなく、イエスに対して憐みを求めました。物乞いでしたから、神さまに差し上げるものはなにもなかったでしょう。しかし、憐みを求める声は残っていました 。

人は、誰もが失敗を犯してしまうことがあります。神の憐れみは、新しい道を作ります。それは、「もう終わったんだ」と諦める道ではありません。「神さまが赦してくださるから大丈夫なんだ。やりなおせるんだ」という安心です。神の愛を疑うものではなく、「あなたは、愛されている大切な存在」というよびかけを信じることができますように、お祈りしたいと思います。



識別

あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。 あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。 信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。 だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。

新約聖書

ヤコブの手紙 5:13‭-‬16 新共同訳


◼️頼るもの

人は、自分の知恵に頼ったり、財産に頼ってしまうと、日々神様に支えられ、生かされていることを忘れてしまうときがあります。

ヤコブは

だから、あらゆる汚れやあふれるほどの

悪を素直に捨て去り、

心に植え付けられた

御言葉を受け入れなさい。」

とヤコブ1:21 で言っています。

悪とは、互いに愛し合うことから遠ざけるものだと思います。みことばとは、神様の言葉です。神様は愛ですから、聖書のみことばの後ろには必ず、「神様はあなたを愛している。」という言葉があると思います。

みことばを受け入れるとは、神様のみ心で心をいっぱいにしなさい、ということだと思います。

社会の価値観では、失敗はゆるされないなど、様々なみことばとは矛盾する考えがひろがってきています。


◼️知恵

様々な情報が反乱すると、なにが神様のみこころ(考え方)なのかを人は考えるのをやめ、社会にひろがっている考え方を優先しがちです。

識別という言葉があります。神様の思いなのか、神様とは異なる思いなのかを静まって考えることです。

ヨハネの福音書10章で、

わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」

とイエスは言います。イエスは、羊はわたしの声をききわけてくれるというのです。イエスの声とは、罪をゆるす声であり、子供たちを命を喜ぶ声であり、愛にあふれています。様々な情報があふれるときこそ識別して、イエスの声を聞き分けたいと思います。ヤコブの手紙でも3章17節で、神様の知恵とはどのような特徴をもつのか、書いています。


上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。


ヤコブは、上から出た知恵といいますが、神様の知恵のことだと思います。神様の知恵は、優しく、憐れみに満ちているといいます。優しさとは、神様がわたしたに示してくださる愛だと思います。「あなたが生まれてきてくれて、本当に良かった。あなたを作って本当によかった」とわたしたちの存在を喜んでくださるものです。

神様の愛を忘れるとき、「私を愛してくれるのは、失敗しないで、よい子にしているときだけだ」など、神様の愛がわたしたちの行いによって変わるものである、と混乱してしまいます。混乱したとかなは、イエス様をみれば心が穏やかになっていきます。イエス様は無学な漁師や、神様から離れていた徴税人を弟子としました。それは、人間側のもつ能力ではなく、神様の恵みによっていることを示しています。


◼️待つ

兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。

ヤコブの手紙 5:7 新共同訳

~現代は、なんでも急ぎがちになってしまいます。子供もゆっくり成長します。花や野菜も種をまいて、ゆっくり成長します。神様も、わたしたちが、成功しようが失敗しようが、温かく待ってくださるかたです。

私は作業所を利用していますが、草取りをするとき、自分が一時間くらいでできる範囲を決めます。いっぺんにはできなくても、コツコツやればきれいになっていきます。1ヶ月かかるかもしれませんが、少しずつすすんでいきます。

時にいっぺんに重荷を抱えてしまったり、慌ててしまうことがあります。しかし、自然界をみると、神様の時のなかで命はいかされ、待つときも必要であると感じます。

すぐには花が咲かなくても、失敗や成功を繰り返しながら、人もゆっくり成長していくのではないでしょうか。なかなか花をつけない植物があります。これは、花を咲かさないから抜いてしまおう、と思いがちです。しかし、神様は花を咲かせるまでずっと待っていてくださり、愛を注いでくださる方だと思います。

13節以下でヤコブは互いに支えあうことを伝えており、一人で我慢することではないと思います。ヤコブは次のように書いています。


あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。 あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。 信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。 だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。

ヤコブの手紙 5:13-‬16 新共同訳


ヤコブは、このように伝えています。互いに罪を告白するとは、自分の失敗や心に隠したいことも隠さなくてもよいことを伝えています。なにもかも一人で抱え込まなくてもだいじょうぶだよ、ということだと思います。

困難は一人では耐えられないこともありますが、互いに支えあう仲間がいるとき、耐えられる苦しみになると思います。困難なときはむしろチャンスのときかもしれません。困難なときは自分の無力さをしり自分に頼るのではなく、神様に頼るようになるからです。


◼️憐れみと慈しみ

最後に、11節の神様は慈しみ深く、憐れみ深いということを考えたいと思います。神様は慈しみ深いのもっとも目にみえるしるしは、ゆるしだと思います。

ヤコブの手紙は、特に貧しいひとや、生活に困っている人に具体的に愛をわかちあい、愛を示していく大切さを示しています。100人の人になにかはできなくても、困っている一人の人のために立ち止まり耳を傾けることはできるかもしれません。

つい話すことに夢中になり、耳を傾けることを忘れてしまうことがあります。しかし、耳をすますことから、教会は隣人に教えられるのではないでしょうか。育児に悩んでいるひと、生きる意味を見いだせない若者、老後の心配にあるかた。イエスが耳を傾けたように、まず隣人の前に立ち止まって耳を傾ける考えることからはじめてゆけるように祈りましょう。


2022年12月