キリスト教福祉、価値、理念とは


キリスト教福祉を知るには、聖書を読むのが一番

キリスト教福祉は、聖書がベースになっています。特に、新約聖書の

 

・マタイによる福音書

・マルコによる福音書

・ルカによる福音書

・ヨハネによる福音書

 

の4つの福音書には、イエス・キリストの生涯が書かれています。マルコによる福音書は、4つの福音書の中で最初に書かれた福音書とよばれています。ルカによる福音書の著者は、ルカです。ルカは医師ですので、福祉や医療に関わるものにとって関連がありますね。片柳弘史神父のブログは、とても参考になります。https://hiroshisj.hatenablog.com

  

 

キリスト教福祉とは、一人ひとりを大切にすることではないでしょうか

聖書の言葉

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜ん方その羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」

(ルカ15章4節~6節)

 

キリスト教福祉は、キリスト教が結びついています。キリスト教といえば聖書です。聖書の中心は、イエス・キリストです。イエスとはどんな生涯をおくったのか、それを、この現代で考え実践していくのが、「キリスト教福祉」であるといえます。そう考えますと、イエスというかたはどのような生き方、教えをなしたのかをじっくり考えてみる。そうすると、キリスト教福祉がみえてくるでしょう。

   イエスがしたことは、一人ひとりを大切にしたことです。イエスは、とことん一人にこだわるのです。みんながその人を無視したり、かろんじていたりするときに、イエスはその人を置いてきぼりにはしません。かえって、弱さを抱えている人、病のあるひと、問題のある人を大切にしました。

その人が過去がどうであれ、現在がどうであれ、そのひとの前にたち耳を傾けること。私たちは忙しい時に、つい一人を軽んじてしまいます。「ちょっとくらい我慢していなさい」というのです。しかし、イエスはとことん一人に向き合いました。

 最近子供たちの自殺が増えていると、インターネットのニュースで知りました。いじめによって、SNSによって、命を傷つけあうことが増えています。相談しても、大人も先生も、生活や仕事でクタクタになって、話し合う余裕がないのかもしれません。一人一人の心の助けに、耳を傾ける余裕が少なくなっているかもしれません。立ち止まって、ゆっくり話を聞いてくれる仲間を求めています。神さまは一人一人に、「あなたはかけがえのない大切な存在。あなたとあえて私は嬉しい。あなたが生まれてきてよかった」と、私たちの命を喜んでくださる方。私たちも、とことん一人に向き合い、「あなたが生まれてきて本当に良かった」と呼びかけあうこと。それが、キリスト教福祉のはじまりであると思います。 

 

キリスト教福祉とは、「私たちはあなた共にいるよ」と「寄り添って」生きること

聖書の言葉

「わたしは世の終わりまで

あなたがたと共にいる。」

マタイ28・20

 

神様は、「私は、あなたといつも一緒にいるよ」と、約束してくださいました。一人でできないことも、協力すると解決することがあります。特に障がいを抱えている人は、こんなことしたいなあとか、あんなことしたいなあと思っても、実現できないことがあります。環境を変更してみたり、工夫してみたりすると、出来ることもあります。援助とは、「こうであるべき」と相手を変えることではないと、私は思います。「そうなんだね。そういう考え方もあるね」と違いを喜び、相手のありのままの気持ちに寄り添うこと。そこから、一人一人の笑顔が生まれてくるのではないでしょうか。神さまは理想の私たちではなく、現実の私たちを愛してくださっているからです。

  イエスは、完璧な存在でした。イエスは、神様だったからです。本来、弟子など必要なかったのです。しかし、12弟子を選ばれました。イエスは仕事をわけあったのです。

 私たちは、すべての責任を一人で背負う必要はないのです。「あれもしなければならない、これもしなければならない」と心をすり減らさなくてよいのです。人間に一度にできることは限られています。イエスが弟子を選ばれたように、私たちも助けあえばよいのです。他の人々に、仕事を任せ、挑戦させてあげればよいと思います。

 イエスは、人間は誰もが完璧な存在ではないことを知っていました。ですから、たった一人の弟子を選んだのではなく、助け合うために12人の弟子を選ばれました。私たちも、互いに支え合ってゆけますように。

  

キリスト教福祉とは、完璧でなくても「今のあなたで大丈夫だよ」とエールをおくることではないでしょうか。

聖書の言葉

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

マタイ11・28)

 

聖書の言葉で、とても親しまれている言葉の一つです。イエスは、疲れた者を追い出したりはしない、ということです。心が弱りなえてしまうときに、どうしても疲れてしまうことがあります。イエスは疲れた者は、「でていきなさい」とはいいませんでした。イエスのまなざしには、その疲れた人が見つめられているのです。するとみえてきますのは、イエスの前ではまだ居場所がある、ということです。

  時には、福祉援助職についているひとも、「こんな私は福祉職に向いていないのではないか」と落胆するときがあるかもしれません。そんなときに限って、一人で頑張ってしてしまうことがあります。しかし神さまは、一人で、重荷をおわなくて大丈夫だよ、とささやいています。一人きりで、なにもかもする必要はないと、私は思います。

  現代はお互いに評価し合い、さらに相手の成長を求める時代です。もちろん、成長することも大切ですが、それがいきすぎるとどうでしょうか。立ち止まることすらできません。休んでなんていられません。

  キリスト教福祉とは、理想の相手に変わってほしいと、要求することではないと、私は個人的に思っています。弱い、はかない、現実の目の前にいる相手に寄り添い、完璧でなくても「今のあなたで大丈夫だよ」とエールをおくること。キリスト教福祉には、神様の愛がいっぱいつまっていると、私は思います。


キリスト教福祉とは、その人にとって、心の休憩地を作ることではないでしょうか

なぜ、衣服のことで思い煩うのか。野の花がどのように育つのか、よく学びなさい。働きもせず、紡ぎもしない(マタイ628)聖書協会共同訳

 

もしなにもできなかったとしても、「人はいるだけで、かけがえのない大切な存在」ではないでしょうか。野の花が咲いているだけで美しいように、人も「いるだけで」限りなく尊い存在です。

野の花は、「私は、私以外の花にはなれません。できることは、自分の花を咲かせるだけ」と、神様に造られた自分に満足しているかのようです。私たちも、自分以上の自分を演じる必要はないと思います。神さまに作られた、等身大の自分でよいのです。誰かと比べて、「私はダメな人間なんだ」と落ち込む必要はありません。誰とも比較せず、神様に造られたありのままの自分を咲かせるだけでよいのです。

 疲れ、弱ったりしているときは、花を咲かせられない時もあります。そういうときは、体も心もゆっくり休める場所も必要です。花を咲かせられない時期であっても、それでも神さまは、一人一人を変わらずに愛してくださる方。

「ゆっくり休んで、心と体を大切にしてね。私はどんな時も、あなたを愛している」と、イエスは慰めてくださるのです。イエスが愛されたように、相手がゆっくりできる心の休憩地があること。その休憩地があるから、人は安心して、すごしてゆけるのではないでしょうか。