テモテへの手紙1


1テモテ13-7

テモテは、エフェソから脱出したいと願っていたのかもしれません(1テモテ13)。そのために、パウロ(私の別サイトでの説明)から、エフェソにとどまっていなさいと指示されています。

 パウロは、信仰の目標を語ります。それは、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる、愛を目指すものです。教会は、愛を目指しているでしょうか。教会は、自分たちの信仰のために、自己満足になっていないでしょうか。神学的な知識はもちろん大切です。しかし、パウロが「無益な議論の中に迷い込みました」(1テモテ16)といっているように、自己満足のための信仰であれば、それは無益な議論に迷い込んでいると、いわざるをえません。教会を守ってくださるように、神に祈り求めましょう


1テモテ112-17

 牧師や神父の務めは、人間の思いではなく、神さまの御心によって立てられるものであると思います。パウロは、「この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです」(1テモテ112)と言います。聖職者になるのは、強いからではありません。能力があるからではありません。ただ、神さまに憐みを受けた者として、神さまの恵みによって立てられるのです。

 パウロは、「罪人の中で最たる者です」と語ります。自分こそ、最も罪びとである、というのです。パウロは、そのような自己理解がありました。

    それは、3つの面から、私たちに希望を与えてくれます。

 まず第一に、「どんなに罪を犯しても、悔い改めたとき、罪は赦される」ということです。過去に、パウロはキリスト教会を迫害し、クリスチャンをいじめていたのですから、暗い挫折感があったかもしれません。最も怖い罪びとが憐みを受けて、神さまの前で幸せに生きているのであるならば、私たちの希望です。言葉は悪いのですが、「あんな迫害者でも、こうも変わったんですか」と実感できるのです。私たちも、悔い改める時に、パウロのように神さまの赦しと希望が与えられるのです。

   第二に、「イエス様は、パウロが罪びとでないから選んだのではなく、罪びとだからこそ選んだ」と思うのです。自分の罪深さを知った者だからこそ、神の暖かいゆるしを体験できたのです。私たちも、過去に一つや二つ挫折感や、罪悪感があるかもしれません。しかし、私たちは、自分のしてしまった行為に落胆しなくてよいのです。パウロが、神さまから赦されたように、イエス様は私たちも赦してくださるのです。パウロは、そのことに気づきなさい、と私たちに教えているのです。

 第三に、当時の教会が、パウロを赦した、ということです。パウロは、クリスチャンを迫害していたのであれば、もしかすると迫害された人物もいたかもしれません。「あの時に、ひどいめにあった」と言われたら、当然のことをパウロはしたのです。しかし、当時の教会のクリスチャンたちはパウロを赦し、クリスチャンとして助け合ったのです。パウロは、赦されることによって、赦す使命が与えられました。


1テモテ2:1-7

パウロは、とりなしの祈りを、すべての人々のためにささげなさいと、教えています。王たちやすべての高官のためにもささげなさい、ということは、現在でいえば、政治にかかわる人たちのために、神さまの導きがあるように、祈りなさい、ということでしょう。

 わたしたちがいつも、信心と品位を保ちとは、神の子供として落ち着いた生活をしなさい、ということでしょう。イエス様は、私たちだけが愛されているのではなく、すべての人が、「自分は神さまに愛されている大切な存在なんだ。生きる意味はあるんだ」と思う事を望んでおられます。そのためには、まず祈りなさい、ということでしょう。


1テモテ31-7

監督の職を求める人は、どのようなふさわしさが必要か、パウロは述べています。

「金銭に執着せず」、とパウロは言います。金銭だけではなく、物事の執着から自由になる事は、神さまの前で必要なことです。神さまのみ旨に反してしがみついているところから自由になり、手を放す、ということです。イエス様も、最も大切な命を差し出して、死なれました。イエス様は、空っぽになりましたが、神さまの愛で心で満たされました。

 「自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子どもたちを従順な者に育てている人でなければなりません」とパウロは言います。自分の家庭とは、家族との関係です。聖書でよく治めている時は、愛をもって治めているか、ということです。自分を忘れて家族を愛しているでしょうか。子どもたちを従順な者に育てているとは、聖書のみ言葉を、繰り返し教えている家族でしょう。幼い時から、聖書のみ言葉に親しんでいる子どもは幸せです。自分は神さまに愛されている、大切な神さまの子どもであると、わきまえているからです。自分のアイデンティティがしっかりしているので、どんな批判をあびたとしても、気にすることはありません。「私は神に愛されているのだから」気にしないのです。

   「監督は、信仰に入ってまもない人ではいけません。それでは高慢になって悪魔と同じ裁きを受けかねないからです」とパウロは言います。高慢は、悪魔の大好物です。高慢とは、他者に耳を傾けずに、相手より自分を上の立場に置いて、見下して生きることです。悪魔の苦手なのは、謙遜です。へりくだった心は、悪魔が苦手なのです。「信仰に入って間もない人ではいけません」とは、信仰の経験がないといけない、ということでしょう。信仰は、最初は熱くなりますが、徐々に冷めていく人がいます。試練がくると、「信仰なんて何にも役に立たない」と言って、捨ててしまう人もいるかもしれません。困難がやってきても、どんなときも、神さまを信じられるのか、神さまは見ているのでしょう。


テモテ41-5

「神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです」とパウロは言います。エフェソの教会で、異端がはびこっていました。それは、結婚を禁じたり、ある食べ物を食べないというような、偽りの教えです。惑わされないように気をつけなさい、とパウロは教えているのです。

「神さまがお造りになったものはすべて良いものである」とパウロは言います。それは、私たちの存在もそうです。私たちの存在も、神さまから造られたものです。誰もが神さまにとって、あなたは美しい存在だと、言われているのです。愛するとは、「あなたは美しいこと。あなたは大切なこと。あなたは宝物である」ことを、相手に気づかせてあげることです。

  「神の言葉と祈りによって聖なるものとされるからです」とパウロは言います。どんな食べ物も、感謝して受け取るならば、食べてよいのです。現代はその意味で、この教えは守られているかもしれません。しかし、当時の教会にとっては、惑わす教えだったのです。現在の教会で惑わす霊とは、何でしょうか。それは、日本では自殺者が多いことに、私は胸を痛めています。自殺とは、社会が変われば防ぐことができるものだからです。もっと、心の悩みのSOSを教会が気づけるようなシステムにすべきであると、私は思います。もっと、心の問題に関心を持つことだと私は思います。一人一人が安心して生きられない限り、私たちの平和はやってきません。


1テモテ46-10

「これらのことを兄弟たちに教えるならば、あなたは信仰の言葉とあなたが守ってきた善い教えの言葉とに養われて、キリスト・イエスの立派な奉仕者になります」とパウロは言います。これらのこととは、テモテへの手紙に書かれているパウロの教えです。「信仰の言葉」とは、イエス・キリストの福音でしょう。私たちは、イエス様を信ずることによって罪が赦され、神の子供として生きられる、ということです。善い教えの言葉とは、当時の教会で広まっていた聖書の教えでしょう。きっと素晴らしい教えが、教会でテモテなどによって話されていたのだと思います。聞いてみたかったですね。しかし、私たちも現在でも、善い教えは教会で聞くことができます。聖書をひらくと聞くことができます。イエス様の愛は、今も昔も変わらなく、聖書の言葉から響いています。その言葉によって、私たちは養われて、成長することができるのです。

  「信心のために自分を鍛えなさい」とパウロは言います。霊的においても、私たちは成長することができます。ディボーションや、聖書を読む時間を確保したり、これといった決まりはありません。しかし、なによりも、祈りの時間によって、霊的な成長を深めることができるでしょう。どんな時も、神さまに祈り、「あなたの御心を教えてください」と神さまに問いましょう。神さまは、人生のどんな時も、あなたを導いてくださいます。

 すべてのことは、喜びから出発しましょう。義務感や強制からしたものは、実りません。自分から喜んですることだけが、実っていくのです。


1テモテ411-16

「あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人の模範となりなさい」とパウロは言います。

 言葉と行動は、結びついています。しかし、日ごろどのような言葉を聞いているのか、教会で聞いているのか、生活で聞いているのか、大事になってくると思います。人間は、大体は聞いている事を話しているからです。良い言葉を聞くように、心がけましょう。良い言葉とは、愛の言葉です。イエス様が、命を差し出してまで、私たちを罪の闇から救ってくれた、イエス様の愛の言葉です。イエス様に耳を傾けましょう。イエス様は、聖書から私たちに語りかけています。

 「愛と信仰」も結びついています。困っている人を放っておくことができないことが愛であり、信仰です。困っている人はたくさんいます。大切なのは、耳を傾けることです。相手が心を開くまで、寄り添うことです。時間はかかりますが、寄り添える隣人が、今求められています。損得勘定を捨てて、隣人と向き合いましょう。

   「模範となりなさい」とはモデルになりなさい、ということです。こんな私など見られては恥ずかしいというのが、正直な言葉だと思います。しかし、「わたしには、そんなことはできない」というのは、隠れた傲慢かもしれません。神さまの力は無限であり、それを可能にする力があるからです。神さまにおできにならないことはない、と謙虚に認め、あとは神さまに委ねましょう。私たちの評価は、ある意味でバラバラです。ある人には、誉められて、ある人には批判されることがあるでしょう。どんなときも、神さまに祈り、神さまの前で誠実になりましょう。神さまの評価は、かわることがありません。最初から最後まで、「あなたはわたしの愛する子。あなたは私の大切な子供」と呼びかけてくださるからです。評価におびえず、神さまに任せましょう。


1テモテ68-10

「食べる物と着る者があれば、わたしたちはそれで満足すべきです」とパウロは言います。欲しいものが次から次へと生まれると、とどまることを知りません。心の虚しさが、物で満たそうとする心を生みます。自分はなんで空しいのか、ときどき心をチェックしましょう。

その一つに、感謝を忘れているからであるともいえます。食べ物があるだけで感謝、住める場所があるだけで感謝なのに、「あれも足りない、これも足りない」となってしまうのです。

 片柳弘史神父の『心の深呼吸』には次のように書いてあります。

どんなにたくさんのものを手に入れても、感謝できない人は決して幸せになれません。感謝できる人は、ほんのわずかなものでも幸せになれます。幸せな人が「ありがとう」と言うのではなく、「ありがとう」と言える人が幸せなのです。

 

感謝を知らない心は、穴の開いたバケツのようなもの。どれほどたくさんの愛が注がれても、決して満たされることがありません。どんなに小さなことにも感謝し、一滴の愛を大切に集められる人だけが、心を愛で満たすことができるのです。


1テモテ617-21

「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」とパウロは言います。

わたしたちにすべてのものを豊かに与えてくださり、心を満たしてくれるというのです。それは、どんな娯楽や物を買っても満たされないことです。そして「楽しませてくれる神に望みを置く」とあります。神さまは、私たちを楽しませてくれるのです。それは、どんなに小さいけれども精一杯に咲く野の花をみるときに、懸命に生きる鳥たちをみるときに、私たちは神さまの愛を知ることができます。焦って走ってばかりいては気づきませんが、生きるスピードをゆるめてみるときに、神さまは大切なことに気づかせてくれるのです。

 

 幸せになりたいのなら、いま持っている物に感謝することだ、というのです。高慢になって、「あれも足りない、これも足りない」といいだすと、きりがありません。できないことを嘆くことよりも、いまできていることに感謝しましょう。人は生きているだけで、限りなく尊い存在です。生きているだけで、本当は感謝すべきことです。なぜなら、命は神さまによって愛されて、生かされているからです。