マタイによる福音書


マタイ4

18 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。

19 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。

20 二人はすぐに網を捨てて従った。

21 そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。

22 この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。

 

イエスは、これからの福音宣教のために、弟子を必要としていました。イエスは、神さまであったので弟子など必要ありませんでしたが、イエスは謙遜な方でした。決して、一人で宣教しようとは思わず、互いに助け合っていく道を選ばれたのです。

 イエスが歩いていると、まずペトロさんとアンデレさんという漁師さんが、仕事をしているのを御覧になりました。暖かい目でみつめ、慈しみにあふれていました。イエスは、「わたしについてきなさい」と言われました。二人は、イエスの言葉に、ゆだねて、従う決意をしました。

 次に、ヤコブさんとヨハネさんが、父親と一緒に船の中で漁の準備をしているところを御覧になりました。ヤコブさんのお父さんもいました。聖書には書かれていませんが、ヤコブのお父さんは、「あなたがたの人生だから、息子にゆだねる」といったのではないでしょうか。それは、私の想像にすぎません。しかし、イエスと父親にも、なんらかの会話があったと思います。

 親は、子どもを縛るものではない、ということです。あくまでも、子どもの成長に寄り添い、子どもが将来なにができるか、なにをしたいのかを発見できるように、寄り添う事だけです。

 こうして、イエスには弟子ができました。イエスは嬉しかったのではないでしょうか。福音宣教をするためには、協力が必要です。そして、自分の力を捨てて神さまにゆだねることが必要です。神さまにゆだねるとは、「私に任せていれば、大丈夫だよ」ということです。

 

メモ欄

2つの弟子にする物語があります。まずイエスが弟子たちを御覧になり、それに応答する形で従うことになっています。おそらく、イエスのまなざしでは、ぬくもりと憐みに満ちあふれたまなざしだったのではないでしょうか。

・ペトロとアンデレは、漁師としての「網を捨てて」従いました。ヤコブとヨハネは、船と父親を残して、イエスに従いました。

19節の「わたしについてきなさい」は「わたしの後ろへ」とも翻訳できる。

18節では、ペテロとアンデレは、「網を打っている」時に御覧になった。仕事していたのである。自分の力で、自分を生かそうとしていたとも読み取れる。自分の力を放棄し、神により頼む、ということである。

21節では、ヤコブとヨハネと父親が「船の中で網の手入れ」をしていたとされる。子どもは、親の家業を継ぐものとされていたのであろう。しかし、父親を残すとは、どうやって解釈すればよいのだろうか。しかし、父親はおそらく、「あなたがたの将来は、息子にゆだねる」といったのではないだろうか。子どもを縛り付けておかない、親の愛があったのではないだろうか。私は、そう読み取った。