マタイによる福音書

マタイ2133-6

 

この主人は、僕たちを農夫たちのところに送ります。しかし、袋だたきにして殺されてしまいました。それでもなお、農夫たちを信頼して、今度は息子を送ります。息子も殺されてしまいました。主人は、寛大な方ではないでしょうか。普通なら、息子を送るはずはありません。主人とは、神さま。息子とは、イエス・キリストです。イエス様は私たちのところにきたのに、私たちの罪のために殺してしまつたのです。

 一番の悲劇は、自分が神さまになったかのように、ふるまうことです。この世界は、あくまでも神さまが主人なのに、人間が主人になると争いがたえません。自分が一番になろう、自分が儲けようと思って、弱い人を排除してしまいます。私たちは、自分が神かのような、ふるまいをすることを、やめる必要があります。神さまの前でへりくだって、神さまに耳を傾けて生きていく必要があります。自分は何もかも知っている、という傲慢を捨て、まだ何も知っていないんだ、と謙遜になりすごしてゆきましょう。

 家を建てる者とは、ユダヤ教のリーダーたちでしょう。捨てた石とは、社会の片隅に暮らしていた人たちです。そのような片隅に追いやられた人が、神の国の土台になりえるのです。

自分を顧みず、他人のために精一杯生きる人は現代にもいます。子どもを守り、保育する、保育園の先生。高齢者のために、自分のすべてをささげて働く介護者のみなさん。ただ人の幸せを願って生きる人こそが、神の国を支える隅の親石となりえるのです。

 

黙想

・農夫は主人のために働き、ぶどうを収穫することだったが、38節にあるように、これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のもとにしよう、と言いました。

・主人が神さまなのに、そのことを忘れて、自分が神さま(主人)になってしまうことに、人間の陥りやすい悲劇があります。

・私たちは、この世界を任せられていますが、あくまでも、私たちは神ではありません。世界の主人は神さまです。

・家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える(マタイ2142)は、詩編2822-23の引用。

・建築のさいに捨てた石が、実は家を建てる時にどうしても必要な石になった。

・捨てた石とは、イエス様とも解釈できるが、社会の片隅に追いやられた人たちとも解釈できる。

 

・神のみ旨に従って生きる人々こそ、神の国の土台となりえる。