マタイによる福音書

マタイ313-17

 

イエス様は、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられます。イエス様は、何も悪いことをしていないのに、洗礼を受ける必要があったのでしょうか。洗礼とは、罪あるものが悔い改め、それを悔いるためにする行為です。イエス様は、神さまであったのですから、洗礼を受ける必要はありませんでした。しかし、イエス様は私たち同じ人間となられ、悲しみ、辛さ、罪の悩みに連帯する方でした。上のほうから、人間を見下ろすのではなくて、共に同じ場所にたって、歩む方でした。洗礼をうけたとき、誰もが「これはわたしの愛する子」と聞きます。イエス様にも聞こえてきましたが、私たちも、イエス様を救い主(メシア)と信ずるときに、誰もが「あなたは私の愛する子」と、神さまは言ってくださるのです。その確信があるからこそ、どんな困難にぶつかっても、神の子としての使命を果たして、喜んで生活してゆけるのです。

 

感想

・イエス様は、へりくだって、人間として生まれてきました。神さまであったのに、すべての身分を捨てて、同じ罪ある人間と連帯するために生まれてきました。

・洗礼者ヨハネは、イエス様に洗礼を授けることを迷いました。しかし、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」とイエス様は言いました。

30歳近くになり、イエス様はヨハネに会うまで、もしかすると迷いがあったかもしれません。自分はこのままでいいのか、神さまの導きを信じていたのかもしれません。それで、ヨハネのところにいって、迷いを取り去りたいと、思ったかもしれません。

      ・イエス様が洗礼を受けられると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえました。このとき、イエス様は確信したのではないでしょうか。「私は愛されている。神さまの道は間違いがない」ということです。