マタイによる福音書

マタイ211-11

 

一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来た時、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして言われました。「向こうの村へ行きなさい。ろばがつないであり、一緒に子ろばがいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに持ってきなさい。」

 そして、イエスはろばにおのりになって、エルサレムに入城します。大勢の群衆は、自分の服を道に敷き、ほかの人々か木の枝を切って道に敷きました。

 人々は「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と言って、お迎えします。

 イエス様は、柔和な方として、来られました。誰もがイエス様に遭うことができるのです。昔飼い葉おけで生まれたように、貧しい人も、弱い人も、誰もがイエスに近づけるのです。私たちも、このままの姿でイエス様に近づけます。綺麗な服装をする必要はありません。普段着で、イエス様の前にでてゆきましょう。イエス様は、今の私たちを愛しておられるからです。

 

黙想

・エルサレムに入場してから一週間の出来事を21-27章で書かれている。

娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。(ゼカリヤ99-10)の預言が成就した。

 

5節で柔和な方とマタイは書いているが、ゼカリア書では、高ぶることなく、と書かれている。

バイブルメッセージ

ロバ

今日与えられました聖書の言葉は、イエスがエルサレムに入場する場面です。イエスは、ロバを必要としました。ロバにのると、ロバは小さな動物から、乗ると群衆の人たちと目線が同じになるのです。イエスは、上から人々を見下ろす方ではなく、私たちと同じ目線にたってくださる方。この方は、小さく子供のロバを必要とされました。それには、イエスの主張があります。「私は、あなたがたが思う王ではない」ということです。イスラエルの民たちは、ローマ帝国に勝利するような、力強い王を思い描いていました。人々が、熱狂しているのも、それを期待したのでしょう。しかし、イエスは、自分がそのような王ではないことを、主張したのでしょう。ロバは、馬よりもはるか昔から、人々をのせた動物として使われていたそうです。人をのせるのは自然なことでした。しかし、ロバは歩くスピードが遅く、小さい生き物でした。馬のほうが、王として理想的で、似合っていたのではないか、と私たちは思います。しかし、馬は軍事的なイメージがありました。一方、ロバは、平和の象徴としてイメージされていました。ゼカリヤ9章9節でも「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。」とあります。

 ロバは、自分なんて役不足だし、能力がないと思っていたかもしれません。自分より優れているのは、馬のほうが、よっぽど力強いのです。私たち人も、自分を見つめる時に「自分は神さまに必要されているのかどうか」、時には悩んでしまうことがあります。しかし神さまは、人からたとえ立派だ、素晴らしい、えらいといわれなくても、たとえ目立たなくても、神さまは必要とされるのです。

「自分なんて、役に立たない」と嘆くのは、実は謙遜ではなく、傲慢であるかもしれません。神さまは、一人一人を作られたときに、一人一人に賜物を与えてくださっているからです。神様に愛されるために、何か役にたつことが必要ではありません。神さまに創造された自分の命を精一杯生きているだけで、神様に愛されるのです。つい、自分の価値を、何ができるか、社会でどんな役に立っているか、で評価しがちになってしまいます。しかし、神様はただ咲いている野の花を、社会で何の役にも立っていないような空の鳥を、生きているだけで愛してくださっているのです。「私は社会で何の役にも立っていない」と落胆するとき、野の早、空の鳥を見上げましょう。神様に愛された命を、自分らしく精一杯生きてゆけばよいのです。


熱狂

人々は、イエスを軍事的な王として期待していたのでしょう。「これでやっと、ユダヤ

はローマ帝国から解決される」。人々の熱狂は、頂点に達しています。しかし、イエスが目指したのは、軍事的な王ではありませんでした。イエスは、私たちの罪を心配し、誰もが神さまの前で赦されるために、イスラエルへと入城されたのです。

 私たちも、神さまは自分の思い通りにしてほしいと、勘違いしてしまうことがあります。順調な時は、神さまは本当におられると思い、そうでないときは、神さまは本当にいるのか、疑問に思ってしまうのです。

イスラエルの民たちも、数日先は、「イエスを十字架にかけろ」と叫ぶものとなったのです。自分の思い通りになることは、もちろん、心地よいことかもしれません。しかし、私たちの人生の道は、自分で計画していないことが起こることが、しばしばあります。聖書をひらいてみますと、箴言16章9節では「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。」と言っています。自分の思った通りにならなくても、神様が準備して下さった道なら、それが一番いい道なのです。神さまが準備してくださったのであれば、それは間違いがありません。神さまに与えられた道であるなら、「今の自分」を否定するのは、もったいないことです。

自分に思いどおりに、なんでもさせようとするとき、私たちは不安になってきます。「もっと自分が変わらなければ神さまに愛されない、弱い自分は神さまに見捨てられる」と思ったら、ますます焦ってしまいます。しかし、人の歩みは他人と競争し、打ち勝つためにあるのではありません。ロバがゆっくり自分のペースで歩み、神さまのご用のために使命を果たしたように、自分らしく自分のペースで、神さまと隣人と助け合いながら、神さまの使命を果たせばよいのです。


洗足木曜日

今日からはじまる受難週のなかで、驚くべきことは、イエスが弟子たちの足を洗ったことでしょう。イエスは何度も、「一番偉くなりたい者は、皆に仕えるものになりなさい」などといって謙遜を説きました。しかし弟子たちは誰が一番偉いのか議論し、イエスの教えを誤解していました。弟子たちは、偉いものとは、仕える者ではなく、仕えられる者として誤解していました。そのままでは、教会共同体は、誰が一番偉いのかで争い、分裂してしまうかもしれません。自分の権力や名誉だけを気にしてしまったら、他人を愛するという、神さまからの使命を果たすことができなくなります。イエスが弟子たちの足を洗ったように、身を低くして仕える者になりなさい。きれいな所だけでなく、汚い所も含めて相手をあるがままに受け入れなさいという模範をイエスは示されたのです。キリストの弟子として生きたいならば、傲慢に相手を見下し、相手を利用しようとするのではなく、謙遜な心で相手の前にひざまずき、相手のために自分を差し出しなさいということでしょう。「こんな私はなにも隣人にできない」と心配する必要はありません。たとえ目立たなくても、陰に隠れていても、神さまは隣人に向けられた愛を喜んでくださるのです。

イエスは、私たちの汚れを洗ってくださいます。その時に大切なのは、神さまの前に隠さないことです。もし、「私の足はけがれているので、ほかの人の足をどうぞ」と言ってしまったならば、せっかくイエスが足を洗ってくださるのに、イエスとの関係を拒否することになります。たとえ、どんなに汚れていようとも、そのままの姿を神さまにみせてもよいのです。「自分でできます」といって自分で洗うよりも、イエスに洗ってもらったほうが、よっぽど綺麗になるでしょう。何も隠さず、等身大の自分をみせるとは、イエスを信頼している、イエスを愛している、という意味なのです。

罪の赦しもそうでしょう。「私の罪は大きく汚れているし、ほかの人は赦されても、私の罪は赦されません」と、それ以外考えられない時があります。そんな頑なな私たちのために、イエスは、私たちの汚れや弱さも洗い流し、十字架の贖いによって赦してくださいました。

「イエスの十字架によって、私は赦されます。神さま感謝します」と告白することが、イエスを信頼していることなのです。自分で必死に修行をつんだり、背伸びして神さまの前で大きくみせようとする必要はないのです。神さまに、赦された者としての使命は、「自分なんか赦されるはずがない」と思い込み、苦しんでいる人たちに、神さまの無条件の愛、赦しの福音を伝えることでしょう。神さまの前で悔い改める時、神さまは必ず赦してくださるのです。

 今も、「自分はくだらない存在だ。生きる価値はない」と思い込んで、嘆いている人は大勢いるでしょう。教会は、そのような人たちに、「あなたは神さまに愛されている、かけがえのない大切な存在。」と伝えることができます。どうか、この喜びが私たちを包み、一人一人が神さまの愛の中で、その人らしく生きられますように。イエスが、命を差し出してまで私たちを赦し、愛してくださったように、その赦しを心から信頼し、「私はあなたによって、赦されます」と、神さまを信頼できますように。