マタイによる福音書


マタイ2626-35

 

聖餐式で、私たちはパンと杯をいただきます。多くの人のために犠牲となったキリストを覚えて、聖餐にあずかります。イエス様は、命を差し出してまで私たちを愛してくださいました。聖餐にあずかるときに感じるのは、「これほどまで自分を神さまに愛されている」という喜びです。

 「私は、不完全で弱いけれど、それでも赦されるんですか?」という質問に対して、十字架の前では、すべての人が赦されます。人間の罪よりも、神さまの愛のほうが大きいのです。ですから、私たちは自分に絶望しなくてよいのです。神さまの前には、希望の道が開かれています。神さまは、思い悩まなくてよい、と教えています。それは、思い悩むとは、神さまの愛を疑うことだからです。神さまの愛を疑う時に、恐れや不安がうまれてきます。私たちは幼子のように、素直な気持ちで、神の国を信じてよいのです。

 

黙想

・最後の晩餐とよばれる記事。

・イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えた。イエスの言葉によって、このパンは神さまの愛に満たされた命の糧となった。

・また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。イエスの言葉によって、この杯は、神さまの愛の見えるしるしとなった。

・食事でも、子どもは親から真心をこめて作ってくれたもののなかに、愛を感じるのではないでしょうか。

・イエスは聖餐を準備するために、どれほど大きな愛をこめられたのでしょうか。

 

・私たちを赦すために、どれほど自分の生涯と体を捧げたのでしょうか。