マタイによる福音書


マタイ1815-20

 

教会は、裁きあう場所ではなく、赦し合う場所です。しかし、相手が間違えている時は、忠告しなさい、とあります。私たちの社会は個人主義で、相手の問題だから関係ないや、と言ってしまいます。しかし、正直にいってあげたほうが、相手にとって、良い方向へ導かれることになります。

 正直にいってくれる人は、ありがたい存在なのです。へりくだって、その忠告に耳を傾けるとき、私たちは自分でも思っていなかった自分に成長することができます。傲慢になって、自分は正しいから神さまの救いもいらないし、他人からの援助もいらないとなると、ますます困難に陥ってゆきます。へりくだって、他人に耳を傾け、忠告に耳を傾ける時に、私たちを幸せにしてくれるのです。

 心を一つにして、祈ることも書かれています。二人でイエス様の前で祈りをあわせるときに、どんな困難も、耐えられる困難に変わります。耐えられない困難ではなく、神さまは逃れの道を示してくださるかもしれません。絶えず希望をもって、祈ってゆきましょう。

 

黙想

・自分は罪びとだと認めること、自分の弱さに挫折することは、神さまの救いの入り口である。

・私たち誰もが、罪びと。だからこそ、裁きあうのではなく、赦し合うことが必要。

・誰かが間違っている道を歩んでいるなら、「忠告しなさい」と言っている。相手は相手だからどうでもいいのではなく、悪いことをしていたら、きちんと正直に話すのがベスト。

・自分は絶対的に正しいというのは、誰かから、救いからもらすのではなく、自分自身で救いから外れる道を歩んでいる。傲慢さが、自分自身を滅びへと道へと誘ってゆくのである。

19節の「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」とある。心を一つにして祈る時、イエス様が働いてくださるのです。絶望への道に進んでいる時でも、誰と共にイエス様に祈るならば、絶望が希望へと変わってゆくのです。

20節「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」という言葉は、教会の姿をあらわしている。