マタイ5・27-32
27 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。
28 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
31 「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。
32 しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。
イエスは、みだらな思いで他人の妻を見る者は、心の中でその女を犯したのである、といわれます。心の中で、私たちは支配欲があります。その人を自分のものにしたいというとき、相手は物として考えてしまうことがあります。しかし、一人一人には人格があり個性があり、尊厳があります。私たちは、その尊厳を軽んじてはならない、ということです。尊厳とは、「私は私であることに価値がある」ということです。
しかし、このイエスの教えを完全に守れる人は、いないのではないでしょうか。その現実に気づく時、こんな弱い不完全な者さえも、愛してくださる神の愛に気づくのです。自分にはできないことを認め、神にすべてをゆだねたとき、私たちは執着から解放されるのです。自分の力だけでしようと思っても、私たちは失敗してしまいます。神さまの助けがあって、はじめて、希望をもつことができるのです。
自分の小さや、弱さを認めたとき、どんなものも、心を乱すことはないのです。ありのままの自分を認める勇気をもち、自分を受け入れましょう。
メモ欄
・「姦淫してはいけない」(出エジプト20・14)と命じられている。
・相手は人格があり個性がある。相手を物にしてみるとき、独占したく、所有したくなる。隣人を愛する、ということができなくなる。
・一人一人は、神さまのものである。所有はできない。
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この人を手放すことができない、というのは傲慢であろう。
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できないときは、自分の無力さを認め、ただ神にゆだねることであろう。
・自分の目よりも、手よりも、隣人を愛することが大切である。
・離縁については、申命記24章1節に書かれている。「人が妻をめとり、 その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手 に渡し、家を去らせる。」。
・離婚を請求できるのは、夫側だけだった。