マタイによる福音書


マタイ715-20 聖書協会共同訳

「偽預言者に注意しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」

 

偽預言者とは、心地いいことを語り、神のことではなく、自分の事を語る預言者です。自分の固定観念にこだわり、キリストに導くのではなく、自分に導こうとします。本当の預言者とは、キリストこそ救い主であり、贖い主であることを伝えます。

 預言者がいなくても、キリストは私たち一人一人に直接に導いてくださいます。私たちが困らないように、聖霊をおくってくださり、助けてくださいます。安心して、イエスに委ねましょう。

 

メモ欄

・良い実とは、イエスにつながっている枝。ヨハネ151-2。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」

・ガラテヤ書では次のように書かれている(ガラテヤ522-23)

「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」

・良い実とは、愛の実。

・良い実は、自分の正しさで実ることはできない。ただ、天のお父さんの愛を信じ、委ね、信頼し、天のお父さんを神さまとするなかで、私たちは救われるのである。

・山上の説教の中心は、天のお父さんの愛を信頼すること。

・偽預言者は、耳に心地いいことを言っていたかもしれない。

・偽預言者は、神さまと人間関係を、引き裂こうとする。

1ヨハネ45では、彼らは世から出た者です。そのため、世のことを語り、世も彼らに耳を傾けます、と書いてある。

・エレミヤ書2316では、万軍の主はこう言われる。/あなたがたに預言する預言者たちの言葉を/聞いてはならない。/彼らはあなたがたを空しいものにしようとしている。/彼らが語るのは自分の心の幻であって/主の口から出たものではない、と書いてある。


1、 土台

マタイによる福音書5章から7章まで、イエスは山上の説教と呼ばれる教えを私たちに伝えています。心の貧しい人たちは幸いであるからはじまり、今日は山上の説教の終わりの部分の御言葉が与えられました。私たちが、信仰の土台と考える時に、イエス・キリストが土台そのものです。

良い実とはなんでしょうか。ヨハネ福音書では、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」とヨハネはいっています。イエスにつながることで、私たちは良い実を結ぶことができるのです。ここから考えられるのは、良い実とは、自分の力で実るのではない、ということです。必死に汗をながして、立派な行いをして、良い実を結ぶというのではありません。たとえ、どんな弱く不完全であったとしても、キリストのぶどうの木につながるときに、すべてを受け入れて、良しとしてくださるのです。「こんな自分では、ぶどうの枝にはなれない」と心配しなくてよいのです。

心が不安なときに大切なのは、自分の考えを捨てる、ということです。そのときに聞こえてくるのは、キリストの言葉です。キリストの言葉は、愛にみちあふれています。愛の言葉こそが、私たちをどん底から救うのです。

それが分かるのは、山上の説教が終わり、81節でイエスが山をおりてした行動です。説教が終わり、イエスが真っ先にしたことは、重い皮膚病をわずらっているひとを癒すことでした。人を愛する、ということをしたのです。

 

2、山上の説教か終わってから

 おそらく、患者さんは差別されていたでしょう。重い皮膚病は伝染病で、家族からも隔離されて生活していました。

    現在は、闇が世界を覆い、福音の光を信じづらい時代かもしれません。それは、何かできたらあなたは大切だという条件付きの愛が、世界を覆っているからです。「何かできたらあなたは素晴らしい」というのは、「何もできなかったらあなたは素晴らしくない」ということです。人は生きている限り、時には間違いを犯してしまいます。そのときに、「こんな私は、赦されるはずはない。さすがにあの罪は赦されないだろう」と諦めてしまうことがあります。

そんな患者さんにむかって、イエスは、「よろしい。清くなれ」と言われました。私には、この言葉が「安心しなさい。あなたは汚れてなんかいない。あなたは赦されている神さまの子どもなんだよ」というふうに聞こえてきました。イエスにとって大切なのは、宗教の掟よりも、人間の命を救う事でした。イエスが患者さんにしたことは、神さまの御心とはなんであるのかを、私たちに示してくださっています。それは、イエスの前では、誰であっても絶望しなくてよいということです。その人が、弱いから、病気だから、欠点があるからという理由で、素通りすることはありません。イエスにとって、一人一人は、神さまに造られたかけがえのない大切な存在として見ていました。そのまなざしで、今日の私たちを見つめてくださっています。

そう考えてみますと、問題は神さまの御心ではなく、自分の考えや常識にこだわって、あきらめてしまっていることに、問題があることがみえてきます。イエスがいくら赦したくても、人間側が「あなたの愛なんて信頼できません。私は赦されない人間なんです」と跳ね返してしまえば、神さまの声に耳をふさいでしまうのです。「もう神の子とよばれる資格はありません」とあきらめる必要はないのです。何があっても、わたしたちは神さまの子どもなのです。天のお父さんの愛は、変わることがありません。弱くて欠点だらけの自分を、それでもかけがえのない大切な命として受け入れてくださるのです。

 

3、信仰の土台

 大切なのは、心を開いて、神の愛を信頼することだと思います。イエスにつながっているかぎり、たくさんの愛を受けて、豊かな実を結ぶことができるのです。そのときに、自分だけで必死に頑張っていても、実を結ぶことはありません。何もかも、自分の力だけでする必要はないのです。できないことはできないと認め、神さまに助けてもらえばよいのです。

仲間と協力しあえばよいのです。

理想の自分を追求するのではなく、自分の限界を認め、神さまに「助けてください」と祈る時、私たちはイエスとつながることができます。イエスは、もっと頑張れ、怠けるなとは、決して言わない方。重い皮膚病の人に寄り添ったように、傍らに来て、手をにぎってくださる方なのです。

 

 土台とは、私たちが築くことはできません。十字架の救いを信ずるとは、イエスの業を信ずることです。マルコ福音書115節で「悔い改めて、福音を信じなさい」とイエスは言われました。自分に執着した生き方を捨てることです。そして、神さまの言葉を中心にし、耳を傾けることだと思います。「あなたの罪は赦された」とイエスは言っておられます。忘れてはいけないのは、イエスはどんな罪でも赦してくださるということです。