マタイ8

18 イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。

19 そのとき、ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。

20 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」

21 ほかに、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。

22 イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」

 

律法学者さんたちは、イエスに対して「先生」というだけで、イエスに従うことなど、考えていませんでした。イエスは、「先生」ではなく「主」である、ということです。「主」ということは、自分の「神さま」ということです。わたしたちは、自分を中心にして考えてしまいます。しかし、神さまを心の中心にして、生活することが求められているのです。

 いろいろな物や執着から自由になったとき、手放したとき、わたしたちはほんとうに自由な存在になれるのです。「あれもしなければ、これもしなければ」と心配する必要はないのです。イエスと共に歩むなら、イエスが私たちの手を握っていてくださるのです。大切なのは、自分の手を神さまに委ねることです。

 また、過去の失敗もクヨクヨ心配する必要はないのです。いまできることを、してゆけばいいからです。過去の失敗がどんな過ちであれ、神さまに悔い改めるならば、神さまは赦してくださいます。いまできることは、前をむくこと。前をむくとは、「神さまの愛に、目をそそぐこと」です。自分はいつも愛されているんだ、生きる意味はあるんだ、と思うことです。神さまの愛に包まれた時、私たちは大地に根をはるように、再び生きていく力が与えられるのです。神さまの愛に根をはって、自分の花を精一杯咲かせましょう。

 

メモ欄

・律法学者たちは、イエスを先生と呼ぶのに対して、弟子たちは主よ、という言葉を使っています。

・弟子たちの覚悟が述べられています。全てを捨てて、イエスに従うものこそが、弟子であるというのです。自分が執着しているものから、手を放す必要性が書かれています。

・人の子には枕することがない、という言葉から、一生涯を神のため、人のために捧げつくしたイエスの生き方が、示されています。

 

・弟子たちは、今従うかどうか、問われています。いまはじめなければ、いつ始めるのか、ということです。人を愛する時も、いま愛さなければ、いつ愛するのか、ということでしょう。