聖書のお話し


マタイ520

「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。

 

イエスは、律法を完成するために来たのです。その律法とは、神さまを愛し、隣人を自分のように愛することです。私たちは、十戒も大切ですし、律法も大切なのです。しかし、形式だけを守っていれば、それだけでいいのではありません。最も大切なのは、神さまとの関係、隣人との関係なのです。

 義とは、神の子らしさです。恥じることなく、神の前で立つことができるのです。神さまは、ありのままの私たちを愛してくださいます。あなたは、ここが足りないから駄目だ、とは言わない方。たとえ、足りないところがあっても、赦してくださる方。神さまの前で、ビクビクする必要はないのです。普段通り、神の子らしくふるまっていればよいのです。神の子らしくふるまうとは、神さまの御心をなによりも優先して生きることでしょう。

 完璧にはなれないかもしれないけれど、それでも、神さまの御心をつぐのが私たちの使命です。たとえば、「自分なんて、生きていてもしょうがない」と落ち込んでいる人に、「あなたは、生きているだけで価値がある。かけがえのない大切な存在」と呼ぶこと。これも、立派な神さまの使命です行いによっては、私たちは救われません。しかし、愛しあい、ゆるしあうとき、神さまは喜んでくださいます。完全にはできないかもしれないけれど、いつも神の子としての喜びをもち、生きてゆきましょう。

 

メモ欄

・イエスは律法を批判したのではなく、律法主義を批判した。ファリサイ派の人たちは、なぜ律法を守るのかを忘れてしまっていた。そして、律法を守られない人たちを罪びとし、裁いていた。

・旧約聖書には十戒がある。私たちの、生きる指針は何か。神を神として生きているか。

・イエスは律法を完成させるためにきた。それは、愛の律法である。マタイ2237-40

37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』38 これが最も重要な第一の掟である。39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

・マタイは、7・12で「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」と言っている。大切なのは、人を大切にすることである。

・ヤコブの手紙210では「律法全体を守ったとしても、一つでも過ちを犯すなら、すべてにおいて有罪となるからです。」と書いてある。

・マタイ520では、言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。と、イエスは言われている。ファリサイ派の人たちは、形式的になり、神を愛することと、隣人愛を忘れてしまっていた。律法は、隣人と比較し、自分の正しさを証明することになり、自分に向かっていた。

・神の子としてふさわしい義。アダムとエバのように、隠れなくてよい。神さまの前で、恥ずかしくない生き方をすることか?

・ルカ189-14も参照になる。

 ・律法学者たちが目指していたのは自分の義。私たちが目指すのは、神さまが与えて下さった義。

・紀元前6世紀エレミヤは、次のように言っている。

(エレミヤ 313334) 

33 来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

 

34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。