マタイによる福音書


イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。(マタイ23:1-12)

 

イエス様は、ファリサイ派や律法学者たちの偽善を見抜きました。言葉ではいっているが、その言葉には行動が伴っていないのです。愛がないのです。それは、子どものためといいながら、世間体を気にしていう親の言葉に似ています。子どもを愛しているのではなく自分の評判が気になるのです。子どもは、自分は愛されていないと、がつかりするでしょう。

 福音宣教の言葉には、愛が必要なのです。パウロは「ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、わたしたちはあなたがたを愛おしく思っていた」(1テサ27-8)」と語ります。パウロの言葉には愛が宿っていました。自分の子どもに語るように、自分の家族に語るように、パウロの言葉にはまっすぐな愛が響いていました。

 まずは、相手の苦しみを自分の苦しみとして、「いま何を語るべきでしょうか」と、神さまに問いかけるところから始まりたいと思います。

 

黙想

・マタイ福音書の共同体は、ユダヤ教の改宗者が多かったのか、ユダヤ教との対立が多かったと思われる。

2節のモーセの座とは、律法を教える人のこと。3節で「だから、彼らが言うことはすべて行い、また守りなさい」とファリサイ派の良いところはほめている。

・しかし、イエス様は「彼らの行いは、見ならってはならない。言うだけで実行しないからである」と言っておられる。なぜなら、4節で「背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」とイエス様は言っている。どんなに立派な教えを述べていても、自分の見栄や知識を見せびらかすことだけが目的だった。

・パウロは説教を語る時、「ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、わたしたちはあなたがたを愛おしく思っていた」(1テサ27-8)」と書いている。

・重要なのは、愛をもって語る事。宣教においても愛がなければ無に等しい。

 

・相手を、自分の子ども、自分の家族のように、真心から語りかけるとき、私たちの言葉に愛が宿る。


参考リンク

片柳弘史神父のブログ、バイブル・エッセイを参照しました。

https://hiroshisj.hatenablog.com/entry/20171105/1509875781