マタイによる福音書


イエス様は復活なさいました。主の天使が石をわきへ転がしました。墓は空っぽなのです。

 私たちも、墓のなかにいなくてよいのです。私たちは、時に恐れや不安で、暗闇の中にいます。「失敗したら生きる価値がない」と思い、闇の中で一喜一憂していきています。しかし、今は光の世界なのです。「失敗しても、神さまに愛されている」と確信してよいのです。

 古い自分に死ぬとは、古い自分から抜け出して、神の愛の光の中で生きることです。「自分の人生には価値がない」という思い込みを捨て、墓の外に出さえすれば、そこは光にあふれた世界なのです。

 

参照

片柳弘史神父のブログ、バイブル・エッセイ(799)を参照しました。

 

 


マタイによる福音書を手にとったときに、忘れてはならないことがあります。それは、まずマタイ123節で「その名はインマヌエルとよばれる。この名は、神は我々と共におられるという意味である」と、まず1章にでてきます。そして、今日読みませんでしたか、続きのマタイ2820節で、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と書かれています。

マタイによる福音書を手にとったとき、この共にいる、というのが、まるでサンドイッチのように、はさんでいるのです。

 

1、 聖書箇所

さて、イエス様は私たちの罪のゆるしのために、十字架にかかりました。そして、復活したことが28章でしるされています。281節でマグダラのマリアと、もう一人のマリアが墓をみにいきました。

 聖書辞典をひらいてみますと、マグダラとは、ガリラヤ湖の西側に位置した港町と記されていました。おそらく、この地方の出身者だったのでしょう。そして、289節で、イエスは婦人たちに、おはよう、と言われたとあります。

私はここを読んだときに疑問に思ったのは、イエス様が出会ったのは、なぜ弟子たちが最初ではなかったのか、ということです。ルカ82節によれば、マグダラのマリアとは、7つの悪霊を追い出してもらったと書かれています。

何か特別ではない、病気、問題を抱えておられたことになります。

 

2、私たちの社会では

 私たちの社会では、優秀さが求められます。企業でも、面接などして、一般的に優れている人、受け答えがうまいひと、表情がいい人材を選ぶのではないでしょうか。そして、そのような人たちを、集めようとします。それは、利益をだすためには、当然のことかもしれません。

 問題のある人、劣っている人と評価されたならば、排除されていきます。

ところが、イエス様がなしたことは、当時のマタイによる福音書を読んだ人たちには、驚きだったでしょう。7つの悪霊にとりついていた。当時悪霊とは、どのようなものだったのでしょうか。もう、近づきたくもない存在、なんらかの罪を犯していたのかもしれませんし、病気を抱えていたかもしれませんし、7つというのですから、よっぽどひどかった状態、能力、才能の人だったのではないでしようか。

 あきらめたくなる、使い物にならない。悲しいですが、そのような評価が、社会からくだされていたかもしれません。あの人は、もうどうにもならない。神さまに見捨てられている人。置き去りにされている人。一つの悪霊ですら、恐れられているのに、7つの悪霊ですから、究極的に最悪な状況を描いています。

しかし、復活の主イエスを一番最初に目撃した、人類の最初の人物は、このような問題を抱えていた。それは、決して偶然の出来事ではなかったと思います。そこに、何か、聖書がとても大切にしていること。イエス様がとても大切にしていること。福音書記者マタイが大切にしたいこと。それが、ここで記されているのではないでしょうか。

聖書のメッセージは、普段の日常の忙しさの中で忘れてしまいそうになりますが。沈黙して、立ち止まって聖書をながめますときに、神さまのメッセージが、強烈に響いているように、私にはきこえてくるのです。

 

3、 私たちにも問題がある

ヨハネ福音書にとびますが、姦通の場で捕らえられた女性の話が、ヨハネ福音書81節から11節にしるされています。彼女は姦通の女で、律法のもとでは、石殺しの刑に処せられるべきでした、そして、石うちの刑に処せられそうになった時に、最後に残ったのは、誰もこの女性を裁けず、二人だけぽつんと残りました。それは、イエス様とあわれな女性です。律法のもとで、神の民たちは生活していました。この女性は、もう諦めるしかありませんでした。ところがです。そこに、主イエスがおとずれ、最後に残ったのは、先ほど申しましたように、あわれた女性とイエス様でした。罪は、神さまの慈しみには、勝つことはできませんでした。この女性は、新しくやりなおす希望が与えられました。

 「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と書いてあります。

この女性が見た景色というのは、決してこの女性だけだったわけではありません。今日、神の慈しみにあふれる教会に集まった一人一人に、神の慈しみが与えられています。

 神よあわれみたまえを、ラテン語で、キリエ・エレイソンといいます。讃美歌21にも、讃美歌30番から35番まで、5曲も神さまの憐みをたたえる讃美歌がおさめられています。讃美歌ですから、神さまの憐みを祈るとともに、たたえる、ということです。確かに、神さまの憐みが、あるということを示していることになります。

 

4、 金銭でなんとかしようとする。 

しかし、この世では、利益によって、動こうとします。今日与えられました聖書箇所の2812節に、多額の金を与えて、イエスの復活を隠そうとしました。神の復活よりも、私たちはこの現代という時代に、負けてしまいそうになる時があります。そして、そのように生きてしまいそうになるときがあります。偽って、真実をおおいかくしてしまいそうになるときがあります。神様の、愛があまりにも大きすぎて、現実の利益、世界しかみられないときがあります。

 そして、優秀のものだけを愛そうとします。社会とまったく同じ価値観で動いてしまうようになります。

しかし、私たちは、神様の愛の真実の前で、本当の姿を直面する必要に迫られています。神様の十字架を、ななめからではなく、真正面から受け止める必要が求められているのではないでしょうか。

それは、もっと立派なクリスチャンになれ、というのではありません。もっと、ましな人間であれ、というわけでもありません。神様は、小さかれおおきかれ、あなたを愛している、ということです。重ねて言いますが、真実を覆い隠そうとして、現実の世界で生きてしまうことがあります。多額の金をうけとって、真実を隠そうとした祭司長たちや番兵たちと一緒のことをしているのです。

私たちは、祭司長たちや、番兵になる必要はないのです。問題をおおいに含んたマグダラのマリアにイエス様が出会ってくださいました。同じように、恐れることはない、と呼び掛けてくださっているのです。問題を抱えていたとしても、あなたを愛し、あなたと共におられるのです。この喜びが教会にはあるのです。キリスト者に与えられているのです。