聖書のお話し


マタイ58 聖書協会共同訳

心の清い人々は、幸いである/その人たちは神を見る。

 

私たちは、毎日忙しくすごしてしまいます。「あれもしなければ、これもしなければ」と、相手をしっかり見つめることができません。しかし、イエスは心の清い人は幸せです、と言いました。心の清い人とは、相手をまっすぐに見つめられる人です。自分の都合を脇におき、相手をじっくり見つめられる人です。私たちは相手をじっくり見つめる時、相手の中に、キリストを見いだすことができるのです。

 イエスはマタイ2540で「よく言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。」と言っています。もっとも貧しい人、困っている人、弱っている人にしたことは、神さまにしたことだというのです。私たちは、もっとも貧しき人たちの中に、神を見いだすのです。心をまっすぐに見つめ、他者をみるときに、その人たちのなかにキリストを見いだすのです。

 私たちは、自然の中にも、神さまの美しい世界を見いだします。花の中に、空を飛ぶ鳥たちのなかに、神さまは世界を愛され、野の花を愛され、鳥たちを愛されています。懸命に生きる鳥たちは、精一杯生きています。目の前だけのことに、全力です。私たちも、神さまに創られたこの命を、背一杯いきましょう。

 

メモ欄

・心の清い人とは、自分の都合を脇におき、相手をまっすぐに見つめる人。

・「自分は、あれもしなければ」と思っている時は、目の前にいる人をしっかり見ることができない。心の清い人は、相手をしっかり見つめることができる。

・心の清い人は、相手の中にキリストを見いだす。

・マタイ2536で「裸のときに着せ、病気のときに世話をし、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」と書いてある。もっとも貧しき者にしたことは、神にしたことなのである。もっとも貧しき者たちをみるときに、そこにキリストがおられるとも、考えられる。濁った眼ではなく、清らかな心にするとき、貧しき人たちのなかに神を見る。

・清らかさとは、単純、ということかもしれない。まっずくに相手を見つめる心。

・ヨハネ福音書149では、「イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、私が分かっていないのか。私を見た者は、父を見たのだ。なぜ、『私たちに御父をお示しください』と言うのか。」とイエスは言っている。イエスを見た者は、神を見たことになる。

・詩編244は、「汚れのない手と清い心を持つ人。/魂を空しいものに向けず/偽りの誓いをしない人。」と書いてある。