マタイによる福音書

マタイ1714-21

 

弟子たちは、てんかんの息子をもつ父親に願いに、上手にこたえることができませんでした。絶望が支配してしまいます。わらにもすがるような気持ちで、弟子たちに託したのに、悪霊を追い出すことはできませんでした。そこにイエス様が現れました。イエス様は、「なんと信仰のないよこしまな時代なのか。その子をわたしのところに連れてきなさい」と嘆きました。そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、その子どもは癒されました。

 弟子たちの自信は、見事に打ち砕かれました。自分たちでできる、イエス様なしでもできるという傲慢さこそ、不信仰だったのです。どんなときも、イエス様に希望をおいて歩むのが信仰です。

 絶望は、自分たちの無力、弱さ、小ささを示す、最良の教師だったかもしれません。弱さを経験し、絶望を経験したからこそ、イエス様の愛の大きさに気づいたのです。

 息子は癒され、父親は喜んだことでしょう。今まで、自分は神さまに見放されている、という絶望の思いから、今は神さまに愛されている、という喜びの笑顔に、変わったのでしょう。

 

感想

・てんかんの息子をもつ父親は、困り果ててしまいました。弟子たちのところにつれてきましたが、癒すことができませんでした。

・父親はユダヤ人の社会から、てんかんを持つ父親、悪霊にとりつかれた息子を生み出した父親として、差別されていたかもしれません。絶望の底にいました。しかし、からし種のよう希望がありました。それは、イエス様に対しての希望です。

・弟子たちは、自信があったのでしょう。イエス様がいなくても自分たちで、何かできると傲慢になっていました。そこから、不信仰がはじまっているのです。

・自分でどうにかなる、イエス様がいなくても大丈夫だ、というところに不信仰があるのです。

・弟子たちは、絶望感、無力感で苦しんだことでしょう。自分たちの力のなさに落ち込んだでしょう。悪霊を追い出すことができなかったからです。

 

・弟子たちは、「ひそかに」イエス様のところにいって、なぜ追い出せなかったのか、聞きに行きます。挫折してしまって、顔もあげられなかったかもしれません。