聖書のお話し


マタイ54聖書協会共同訳

悲しむ人々は、幸いである/その人たちは慰められる。

 

イエスは、悲しんでいる人が幸せだ、と言われました。私たちは悲しみます。学校のテストがよくなかったとき、自分の思い通りにいかなかったとき、人間関係で悲しみ、色々なことで悲しみます。悲しみはないほうがいいのではないか、と思う時があります。しかし、イエスは悲しむ人は幸せです、と言われます。それは、慰められるからだ、というのです。私たちのどんな困難も、もはや一人ではありません。神さまが、私たちの手をにぎってくださり、共にいてくださるから、もはや不幸な悲しみはなくなったのです。神さまが手をにぎってくださるとき、悲しみも、耐えられる困難にかわるのです。一人では、耐えられなかったのに、イエスがきてくださることによって、かわったのです。

 私たちはどんな時も一人ではありません。ですから、「もう絶望だ」とあきらめなくてよいのです。どんなときも、神さまは愛の光で照らしてくださるからです。ですから、安心して、この時を神さまに委ねて歩んでゆきましょう。

 

メモ欄

・悲しむ者が幸いである。それは、どんな困難や苦難も、イエスが来られたことによって耐えられる力が与えられるから幸いなのだ、ということであろう。

・悲しむ(πενθέω)は以下の箇所などでも使用されている。


イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。マタイによる福音書 9:15 新共同訳


マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。マルコによる福音書 16:10 新共同訳


今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、 あなたがたは飢えるようになる。 今笑っている人々は、不幸である、 あなたがたは悲しみ泣くようになる。ルカによる福音書 6:25 新共同訳


悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。ヤコブの手紙 4:9 新共同訳


・慰め(παρακαλέω)の受動態のπαρακληθήσονταιが使用されている。

パラカレオーは、以下などで使用されている。懇願する、勧めるなどの意味もある。


その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。使徒言行録 16:9 新共同訳


この騒動が収まった後、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げてからマケドニア州へと出発した。使徒言行録 20:1 新共同訳


勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。

ローマの信徒への手紙 12:8 新共同訳


わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。

コリントの信徒への手紙二 1:6 新共同訳


むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。

コリントの信徒への手紙二 2:7 新共同訳


終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。

コリントの信徒への手紙二 13:11 新共同訳


・イエスが共にいるとき、どんなに辛い困難も、耐えられる幸せな困難になる。イエスがいないと、立ち崩れるが、イエスがいると支えられやり直すことができる。だから、幸いなのだろう。


・片柳弘史著『こころの深呼吸』(教文館刊)の、次の言葉を思い出しました。

「耐えられないほどひどい苦しみも、誰かがそばにいて手を握ってくれるなら耐えられる苦しみに変わります。愛する人の苦しみをなくすことはできなくても、耐えられる苦しみに変えることならできるのです。」