聖書のお話し


マタイ57 聖書協会共同訳

憐れみ深い人々は、幸いである/その人たちは憐れみを受ける。

 

 自分自身を土台にして、私たちは生きてしまいます。自分はなんでもできると思い、プライドなどもっています。しかし、年をとるにつれて、できることは少なくなったりします。しかし神様は、そんな私たちでも憐れんでくださるのです。「あなたは生きているだけで、限りなく尊い存在」だといわれているのです。

 憐れむとは、ゆるし、理解することでもあります。また、共に苦しみ、重荷を背負う事でもあります。神さまは、弱い私たちを憐れんでくださるのです。憐み深い者になれるでしょうか。まずは、自分自身が憐みを受ける必要があると思います。神さまに、ありのまま愛されて、赦された自分を知ったときに、他者を赦し、理解する道へとつながっていくのだと思います。まずは、自分自身を赦しましょう。自分を痛めつけるのはやめましょう。憐みは、私たちの弱さをも含めて、愛してくださるのです。憐みは、私たちが不完全であろうと、止まることはありません。

 

メモ欄

・憐みとは、共に苦しむこと。共に悲しみ、共に嘆くこと。

・憐みは、ゆるし、理解することでもある。

・旧約聖書では、ホセア66で「私が喜ぶのは慈しみであって/いけにえではない。/神を知ることであって/焼き尽くすいけにえではない。」と書かれている。

・憐みとは、上から見下すのではない。イエスは神であったのに、私たち人と同じ姿にあらわれてくださった。そして、悲しみや重荷を背負ってくださった。

・どれほど憐れもうと神さまが思っても、それを受け入れる心があければ、神さまの愛は入ってこない。私たちにできるのは、謙虚になって、憐みを神さまから受けることである。

 

・ルカ福音書ではルカ636で「あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい。」と書かれている。