マタイによる福音書


マタイ616-18 聖書協会共同訳

 「断食するときには、偽善者のように暗い顔つきをしてはならない。彼らは、断食しているのが人に見えるようにと、顔を隠すしぐさをする。よく言っておく。彼らはその報いをすでに受けている。あなたは、断食するとき、頭に油を塗り、顔を洗いなさい。あなたの断食を人に見られることなく、隠れた所におられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」

 

 

私たちは、イエス様によって罪が赦され、いまは祝いの時、喜びの時です。神さまの前で、暗い顔をしなくてよいのです。人に、わざと暗い顔をして、いかにも断食してそうなふりをしなくてよいのです。いつも通りに、元気でいいのです。

 もちろん、自分の罪の嘆きのために、食べ物が喉がとおらないときがあります。そこまで、自分を追い込んでしまうこともあります。それは、本当の断食かもしれません。しかし、イエスは、私たちに罪の赦しを与えて下さいました。自分自身の力で、行いによって救われようとしなくていいのです。神さまは、私たちを、ただイエスの十字架のあがないによって、赦してくださるからです。いまは、祝いの時です。喜びの時です。頭に油をぬって、顔をきれいに洗いましょう。そして、外にでていきましょう。今は、喜びの日なのですから。

 

メモ欄

・施し、祈り、断食は、当時の人々の信仰者の生活の基本をなすものだった。

・偽善とは、ギリシア語では「役者」の意味。よく見られようとして、自分のほうに心が向いている状態。

・断食とは本来、神さまに向けてなされること。

・認めてもらいたい、見てもらいたいという、偽善が人にはある。

・断食とは本来、自分の罪を悔い改め、嘆き、悲しむ行為

・マタイ914では、花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる、と書かれている。花婿とは、イエス・キリストがいること。いま私たちは、花婿と一緒にいるのである。喜び、祝いながら、歩んでいいのである。

 

・自分の救いを、イエスに赦されたものとして、喜び祝いの時にいきてよいのではないか。