マタイによる福音書

マタイ2123-27

 

イエス様は何の権威で、行動しているのでしょう。それは、愛の権威です。形式的にではなく、まっすぐ神さまとつながる愛を、人々に伝えました。しかし、祭司長や民の長老たちは、それが赦せません。

「あのイエスという男は、勝手に罪の赦しを宣言している」

「自分を神だと思っている。あんな男は赦せない」

そんなことを祭司長や長老たちは、言っていたのでしょう。

 しかし、イエス様は神さまの子どもとして、罪を赦す権威がありました。イエス様は、形式的な律法主義に支配されていた人たち、私たちの罪によって、十字架の道へと歩まれるのです。イエス様は、十字架で無限の愛を明らかにするのです。それは、すべての人が神の前でかけがえのない存在であること。神が私たちの罪や弱さを赦し、あるがままに受け入れてくれることを。人と神さまとの間には、イエス様以外、なにもいらないことを伝えました。

十字架の中にこそ、神さまの無限の愛、人生の答えがあるのです。

 

黙想

・何の権威で、イエス様はこのようなことをしているのか、と祭司長と律法学者たちに、イエス様は尋ねられます。

・先日、宮潔めという行動をイエス様はしました。それは、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒されたことです。

・イエス様は罪を赦す権威を持っていました。当時は、いけにえの動物をささげ、既定の手続きをし罪が赦される権威が存在していました。そのような律法学者たちにとって、罪を赦す権威があるイエス様を赦せなかったのでしょう。

 

・私たちも、この世の価値観に押し流されて、イエス様を十字架につけてしまうことがある。