マタイによる福音書

マタイ111-19

 

洗礼者ヨハネは牢の中から、弟子を使いにだしてイエス様に質問しました。「来たるべき方はあなたでしょうか。」。洗礼者ヨハネは、あなたがメシアですか、と質問したのでしょう。それに対してイエスは、行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい、と言われました。わたしにつまづかない人は幸いです、といったのです。洗礼者ヨハネの弟子たちは、政治を変換させる、メシア像をイメージしていたのかもしれません。しかし、イエスは、貧しい人たちに伝えるメシアです。軍事的なメシアではありませんでした。弱さによって、私たちに愛と憐みを伝えたメシアでした。

 洗礼者ヨハネは、最後の預言者でした。今は、救いの時代です。イエス・キリストの時代です。私たちは、イエスをメシアと信じられる幸いにあずかっているのです。

 

・イザヤ書611では「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。」と書かれている。イエスはによって、この予言は実現された。

・ヨハネの弟子たちは、イエス様がヘロデの権力を打ち壊す、政治的なダビデの子をイメージしていたのかもしれない。権力によって、逮捕されている洗礼者ヨハネを牢獄から救ってくれる人物として、予想していたのかもしれない。

6節のわたしにつまづかないものは幸いです、はヨハネの弟子たちが、イエスにつまずいていたのかもしれない。

・私たちも、改革者としての政治を変換させる、強いメシア像にこだわってはいけない。

13節「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである」とは、洗礼者ヨハネの時代まで。イエス様によって、新しい時代に入った。今は、恵みの時なのである。

14節の言葉は、マラキ323から来ている言葉。

 

・洗礼者ヨハネは、自分の罪に嘆き悲しみ、自分の罪に悔いることを求めていたが、イエス様の教えは、慈しみと赦しがやってきた神さまの愛の支配を強調している。