マタイによる福音書


マタイ241-14

 

イエス様が再び再臨するときの徴を教えてくださいと、弟子たちは尋ねました。イエス様が再びくるときは、愛が冷えている、と言います。お互いに無関心になり、命の価値が守られず軽んじられる時代がくるのでしょう。しかし、私たちは、諦めてはいけません。イエス様は、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と言っているからです。愛をつくりだす者となれるのです。

 そのためには、まずは神さまの愛を受けて、充電する必要があります。どんな時も、自分は愛されているんだと思い、神さまの愛に「ありがとう」と言える人が、一人でもいるかぎり、世界には希望があるのです。平和をつくりだす人が一人でもいるかぎり、世界には未来があるのです。

 諦めてしまっては、それで終わりです。耐え忍ぶ者は救われるとは、自分の思った通りにならなくても、その現実を受け入れることです。神にすべてを委ねて、苦しみを乗り越えてゆく。それが忍耐です。忍耐には希望があるのです。自分にはなんにもできないけれど、神さまにはできる。神さまの愛は私たちを裏切ることがないように、希望も裏切ることがないのです。

 聖書は言っています。

 わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(ローマ51-5)

 

黙想

2338節で「お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」とイエス様は言っていました。それが弟子たちは忘れられなかったのでしょうか。弟子たちは、近寄って来て、イエス様に神殿の建物を指さしました。

・それに対して、神殿の崩壊を予告します。紀元70年に、エルサレム神殿は崩壊したとされます。

3節で、イエスがオリーブ山に座っておられるとき、弟子たちが近寄って来て、ひそかに言いました。「そのことは、いつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」。

・「そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる」(マタイ2410)

 

・「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」(マタイ2412)とイエス様は言います。愛が冷えるとは、お互いに無関心になることでしょう。