マタイによる福音書


マタイ1722-27

 

 イエス様は、人の子は人々の手に渡されようとしている。そして、殺されるが、3日に復活する、と言われます。弟子たちは、非常に悲しみました。弟子たちは、悲しんだだけではなく、パニックになったのかもしれません。未来が分からないほど、怖いことはありません。

 次の話は、カファルナウム、ペテロの家があったところです。神殿税を集める人たちが、「あなたがたの先生(イエス様)は、神殿税を納めないのか」と言います。ペテロは、「納めます」と答えます。

 イエス様は、本来は納めなくてよい神殿税を、他人への愛の配慮のために、収めることにします。とてもユーモアあふれる方法で、神殿税を納めようとします。それは、湖で魚を釣ったら、その中に銀貨がみつかるというのです。それを、イエス様とペテロの分として収めなさい、というのです。

 イエス様は、隣人をつまづかせないように生きました。それは、隣人を愛することです。信仰はともすれば、自分の自由だから何をしてもいい、となります。しかし、私たちの判断基準は、愛を基準にしなければならない、ということです。愛というコンパスがあるのです。愛のコンパスをもって、愛の方向へ進みましょう。

 愛せない自分であったとしても、神さまは奇跡を通して、隣人を愛する者へと変えてくださいます。

 

感想

・引き渡されるとは、主語が書かれていなく、受動態で書かれている。神的受動と呼ばれる。引き渡される行為すらも、神さまの主権が働いており、神さまの権威のもとに進んでいることが読み取れる。父の御心が働いている。

・神殿税を納めるとは、ユダヤ教を支持するということであった。

・神さまの子どもからの自由がある。束縛や義務からの解放がある。本来は、神殿税を納めなくてよかったのかもしれない。しかし、27節に、彼らをつまづかせないようにしよう、という言葉から、イエス様の他人への愛の配慮が考えられる。この世の法律や秩序への配慮が考えられる。神の子としての自由が、この世の法へのつまづきを犯しているのであれば、自分たちは悔い改めなければならない。

 

・それは、愛の配慮だともいえる。しかし、隣人を愛することのできない弱さがある。それでも、神さまの助けによって、隣人を愛する者へと返られていく。