マタイによる福音書


タイ935-38 群衆に同情する。

 

イエス様は、町や村を残らず回って、会堂で教えられました。おそらく、神さまの愛や慈しみに溢れる教えだったことでしょう。御国の福音をのべ伝えとは、「あなたはかけがえのない大切な存在。あなたは神さまの子ども」という、良き知らせだったことでしょう。どんな人も、神さまの愛を喜んだのではないでしょうか。そして、ありとあらゆる病気の人を癒しました。イエスにとって、困っている人、苦しんでいる人を、放っておくことはできませんでした。

 群衆は、飼い主のいないような羊のように弱り果てているのをみて、憐れみました。その当時のファリサイ派や律法学者たちは、羊飼いにはなっていなかったのです。自分たちの、自己満足のために、宗教の掟を利用していたのです。

 働き手は少ない、といいます。神さまの国を宣教するために、弟子たちをイエスは必要とされました。私たちが互いに愛し合い、助け合う時、イエスの弟子たちが、生まれるのです。

 

感想

・エゼキエル34章が背景にある。「彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。」(345)「彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕(しもべ)ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる」(3434)

・「イエスは、すべての町や村を残らず回って、会堂で教え御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」(マタイ935)は、マタイ423と、ほとんど同じ言葉が書かれ、まとめられている。

・「飼い主のいない羊」とは、当時は会堂があり、ファリサイ派や律法学者たちがいた。にもかかわらず、飼い主としての使命をはたしていなかった。

 

・逆に、飼い主のいないように、自由になっていきたいという欲望が人間にはある。しかし、飼い主がいないと、やはり人は、弱り果ててしまうのだろう。