マタイによる福音書

マタイ191-12

 

イエス様は、結婚を通して、共に人が生きていくうえで大切なことを、教えられています。それは、男性と女性は別個の存在であり、お互いが異なる存在で、互いに重荷を背負い合い、生きていくことです。どちらかが上にたつのではなく、いつも同じ目線で寄り添い合って生きていくのが、夫婦だといえます。

 マタイ1912では「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者、そして天の国のために結婚しない者もいる」とイエス様は言っています。結婚だけがすべてではないのです。結婚できない人は、ダメな人間ではありません。

 誰もが、神さまに愛され、赦され、共に生きる存在です。神さまはありのままの私たちを愛されています。自分はそのままでいいのです。そして、相手もそのままで神さまに愛されているのです。共に生きていくためにはどうしたらよいのか、ここの聖書箇所は教えてくださっています。

 

黙想

・1節の「イエスはこれらの言葉を語り終えると」とは、新しい段階を示している。

7・28、11・1、13・52も、同じ表現がある。

・イエスはガリラヤを去り、ユダヤ地方に行かれた。

・イエス様は結婚とはどういうことなのか教えているわけではない。共に生きるとは、何であるのかを教えている。

・ファリサイ派の人は、何か理由があれば夫が妻を離縁することは律法に適っていますか、とイエス様に質問します。その律法とは、申命記241に書かれています。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」

・それに対してイエス様は、「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」(マタイ194)と言われます。

・さらにイエス様は「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(マタイ195-6)と言われます。

・神さまは、男と女を同等の立場に置き、互いに重荷を背負い合い、助け合う別個の存在としてお創りになりました。どちらかが上にたって支配する、という関係ではなく、お互いに異なる存在を受け入れ合い、尊重しあう関係です。

・マタイ1912では「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者、そして天の国のために結婚しない者もいる」とイエス様は言っています。結婚するだけが、正しいという選択肢ではありません。私たちは、正義をふりかざして、結婚だけが正しい生き方と思いがちですが、そうではないのです。パウロも、洗礼者ヨハネも、独身でした。全てを神さまにささげていたのです。様々な生き方を、認めることが大切だとされているのです。

・私たちは、すべてがロボットのようなコピー的な存在ではありません。一人一人が神さまに愛され、認められ、赦されているのです。しかし、自分を正当化して、他者を排除するときがあります。自分もそのままに愛されていますが、他者もそのままで神さまに愛されている事を、覚えましょう。