マルコによる福音書


マルコ421-25

 

ともし火は、暗闇を照らしました。ともし火は、燭台の上に来て、私たちを照らしているのです。夜になっても、ともし火によって、物が見えます。イエス様は、ともし火となって、私たちを愛で照らしてくださいました。いま、私たちは、すべてが照らされて、隠れているものはなく、秘められているものはありません。イエス様を見れば、神さまの愛がすべてわかるからです。

 イエス様はさらに、「何を聞いているかに注意しなさい」と言いました。私たちは色々な情報を聞いています。しかし、本当に大切なことは、ごくわずかなはずです。神さまの前で静まって、自分で神さまの言葉をこれは大切でないからどうでもいいや、と捨てるのではなく、どんな神さまの言葉も感謝して、拾うということです。

 この世界には、あちらこちらに宝が隠されています。ある人は、幼稚園の先生で、子どもたちと触れ合うことに喜びを感じ、天の宝を見つけたかもしれません。その宝は、失うことはないでしょう。ある人は、障害福祉の仕事で宝を見つけたかもしれません。その人は、障がいを抱えている方と触れ合う中で、宝を見つけたかもしれません。

 イエス様というともし火に照らされて、この世界は喜びに満ちあふれていることに気づくでしょう。私たちも、イエス様という愛の光に照らされて、人生の道が照らされているのです。安心して、この信仰の道を歩んでゆきましょう。

 

黙想

・ともし火とは、夜に部屋を明るく照らすものです。

・電気のない時代に、必需品でありました。

・自分の量る秤で与えられているとは、自分の言葉で評価しようとするのではなく、神さまに委ねて、神さまの言葉に耳を傾けること。

・自分の秤で勝手に、神さまのみ言葉を評価してはいけない。自分の秤を捨て、神さまの秤で考えてゆかなければならない。