マルコによる福音書


マルコ92-13

 

イエス様は、3人の弟子たちだけを連れて、高い山に登られました。その時、イエス様の姿が変わり、服は真っ白に輝きました。自分の命をすべて神さまに差し出す姿を見て、最も美しく輝いたのではないでしょうか。どんな困難でも、乗り越えてゆこうとするイエス様の姿に、「あなたは愛されている」ということを胸に刻みつけるために、天から声が響いたのでしょう。

 私たちも、自分を大きく見せようとするのをやめたとき、すべての見栄やプライドを捨て神さまに差し出す時に、命は最も美しく輝くのです。

 その輝きを残しておこうと、ペテロは口をはさんで言いました。残念ながらその願いはかないませんでしたが、今でも3つ、光り輝くものがあります。

 1つは、神さまの愛です。神さまの愛を受けて、私たちは世の光となることができます。神さまに愛されている自分を知ったとき、私たちは輝くのです。

 2つ目は聖書です。今でも聖書を通して、その行間を通して、イエス様は語り続けています。イエス様の言葉に耳を傾ける時、私たちの心は輝きます。

 三つ目は、教会です。キリストの体として、共に祈り、礼拝を預かることによって、私たちは助けられ、支えられ、命の輝くことができるのです。教会は、神さまの愛がつまった子宮のようなものです。教会の空間にいるとき、私たちはイエス様の愛で憩うことができるのです。

 

黙想

・「これはわたしの愛する子」という言葉があったからこそ、十字架への苦難を耐えることができたのでしょう。

・イエス様が変容した場面は、自分の命をすべて神さまに差し出す決心をしたのではないでしょうか。その時、服は白く輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなったのです。

・地上でどんなに素晴らしいことをしても、私たちを輝かすことはできません。

・最も低い所の洗礼で、「あなたはわたしの愛する子」という声が響きました。そのときは、神の子でありながら罪びとであるその列に加わる中で、「それでこそ、わが息子だ」と言ったのです。

・今度は、高い山で「あなたは私の愛する子」と天のお父さんは言いました。それは、これからどんな苦難が待ち受けていようとも、それを乗り越えていこうとするイエスの姿を見て、天の父は言ったのではないでしょうか。

 

参照リンク

片柳弘史神父のブログ、バイブル・エッセイを参照しました。

 

https://hiroshisj.hatenablog.com/entry/20150301/1425208605

https://hiroshisj.hatenablog.com/entry/20120304/1330861576