マルコによる福音書

マルコ331-35

 

イエス様の身内や母がやってきて、説得するためにやってきました。周りの人に迷惑をかけていると思ったからです。律法学者たちは、イエス様が「ベルゼブル(悪霊の頭)」にとりつかれている、と文句を言っています。

 しかしイエス様は、サタンがサタンを追い出すことはできはない、と言われています。人々は癒され、神さまを賛美している。神さまの業によって癒しを行っているのです、とイエス様は言いたかったのでしょう。

 そして、神の御心を行う人こそが、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ、と言われます。血のつながり以上の家族のきずなが、結ばれていくのです。イエス様は、母子関係の執着をたちきっています。そして、神の前で本当の親と子の関係を気付いているのです。いつまでも、母に頼っていては、できることもできなくなってしまいます。イエス様が、母マリアとの間に距離があるのは、神さまの前で生きるとは、どういうことなのか、私たちに教えてくださっています。

 

黙想

・イエスの母と兄弟たちが、イエスが気が変になったのではないかと思い、説得するために来たのでしょう。

・身内の人は、イエス様が悪霊にとりつかれて、みんなに迷惑をかけ始めていると思ったのでしょう。

・イエス様は、善いことを行っていました。「見なさい。人々が病から癒され回復している。サタンの力ではなく、神さまの力で癒されているのです。」とイエス様は、言いたかったのでしょう。

 

・私たちの間にも血のつながり以上の家族のきずなが、結ばれていくことでしょう。

バイブルメッセージ

1、イエスの行動

イエスの行動は、良いことだけではなく、様々なトラブルをユダヤ人の社会や生活に引き起こしていたことが、今日の聖書の箇所からみえてきます。21節に、身内とありますが、おそらく親戚や家族のものが「イエスよ、もうこれ以上周りに迷惑をかけないでくれ。」と心配して、取り押さえにきたのでしょう。親戚の人も、身内や家族の人も、心配だったのでしょう。21節の続きには、「あの男は気が変になっている」と言われていた、とあります。しまいには、「悪霊の力で悪霊を追い出している」ともいわれます。様々な悪い評価や評判が、イエスに与えられていたことが、みえてきます。


2、悪と戦うキリスト

 しかし、イエスは神さまの御心を行うことを止めませんでした。自分がこの地上に来た使命を、しっかり知っていたのです。ですから、周りにどんな評価をされようとも、真正面から自分のするべきことをして、悪に立ち向かいました。おそらくイエスの心には、たとえ人からどんな評価をされようとも、神は私を愛している。私は大切でかけがえのない大切な存在であることを、知っていたのでしょう。自分は何者かをしっかり知っていたからこそ、周りの反論に動揺することなく、自分の福音宣教の使命を、着々とはたしてゆけたのです。

イエスは、神さまの御心に集中していました。誰も神さまの御心を知ることはできません。しかしイエスの行動や、教え、聖書をひらくなかで、イエスに現わされた神の愛の中で、神の御心を知ることができるのです。


3、直前の記事

 今日与えられたマルコによる福音書の直前の記事には、イエスは12弟子たちを選ばれたことが記されています。この記事一つとっても、神さまの御心とは、一人の人の能力によって教会が成り立つのではない、ということを示しているでしょう。イエスは、不完全で弱さを抱えている弟子たちを選び、愛されました。

一人の偉大な人物によって維持される共同体ではなく、お互いの賜物を生かしあって、お互いの違いを喜び合う共同体をイエスは目指されたのです。キリスト者一人一人には、神さまは異なる賜物が与えられているのです。ほかの人ができることを自分ができないからといって、落胆する必要はありません。神さまが与えてくださった自分を喜び、自分の賜物を用いて、隣人や神さまに仕えることができるのです。神さまがせっかく賜物を与えてくださっているのですから、「私は神さまに、何も与えられていない」と嘆くのは、もったいないことです。完璧にできなくてよいのです。「私にはそんなことをする力がない」と最初から諦めてしまうことがあります。全てを完璧に、一人でこなそうとしているからでしょう。完璧にできる人はいないので、自分ができることを精一杯すればよいのです。一人で出来ないことも助け合うと出来ることもあります。自分一人で重荷を背負わなくてよいのです。イエスは完璧な存在であったのに、あえて弱く、不完全な弟子たちを必要とされました。それは、神の御心でした。弟子たちは、イエスが十字架にかけられたとき、自分の身を守るために逃げていきました。おそらく、弟子たちは、自分自身の弱さと直面し、自分を嫌いになったことでしょう。「あんなにイエス様に従っていたのに、肝心なところで逃げてしまうなんて、なんてことをしてしまつたんだ」と絶望したことでしょう。自分を責め続けたかもしれません。しかし、神さまの御心は、復活したイエスによって示されました。それは、どんなに間違いを犯しても、人には新たにやり直す希望が与えられていることです。復活したイエスは、弟子たちを赦し、福音宣教の使命を託しました

弟子たちだけではなく、私たちの生活の中でも、人間関係がうまくいかなかったり、仕事で大きな責任を任せられた時、「自分ではもうできない」と逃げたくなるときがあります。しかし、自分ではできないとき、そこで終わりではないのです。自分の限界に気づいたとき、いよいよ、そこからが神様の出番なのです。「神様、私には限界です。あなたにお委ねします」と祈るとき、神様は私たちに力を与えてくださるのです。もう無理だと思った時こそ、神様の出番です。神様にゆだね、自分が今できることは精一杯すること。それが一番なのです。


4、神の家族

 イエスは、神の御心を行う人を、家族としてたとえてくださいました。マルコ3章35節でイエスは、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と言われました。イエスにとって、もはや私たちは他人ではないのです。神さまに愛された、かけがえのない大切な尊い存在。たとえ小さくても弱くても、神さまの愛に包まられて愛されている、大切な神さまの子供なのです。

 家族であれば、なんでも神さまに相談することができます。進路や人生の道、病気や試練に出会ったならば、一人で孤立する必要はありません。「神さま困っています」と祈り、神さまにお委ねすることができます。主の祈りでは、神さまは天のお父さん、もっとくだけていえば、天のパパと、よびかけています。天のお父さんは、自分の子どものことを知りたいと思うでしょう。今日一日あったこと、いま心配なこと、困っていること。お父さんは、相談にのってくれるのです。そして、どんなに大きな試練にあったときでも、神さまは逃れの道を備えてくださると、聖書は約束しています。自分がたとえ小さくても弱くても、神さまにお委ねするとき、神さまは道を開いてくださるのです。

疲れたものよ、重荷をおうものよ、私のもとに来なさい、と語りかけるイエスは、前に進みたがる私たちに向かって、時には神さまのところで休み、立ち止まる大切さも教えられています。現代の社会は、前に進むことだけを考え、全身し、自分を大きくすることのみ考えようとします。しかし、走り続けていれば、神さまが創られた野に咲いている花の美しさ、花の香り、鳥のさえずりの美しさを感じ取ることはできないでしょう。走り続けることも大切です。しかし、人は時には立ち止まり、神さまの前に重荷をおろすことも、同時に大切なのです。その静けさの中で、神さまと静かに向き合い、人は祈ることができます。「あなた一人の力で、なんとかしなさい」とイエスは言わない方。家族として、困ったときはいつでも相談でき、寝食を共にし、病気のときは看病してくださる方。イエスは、私たちを他人としてみていないのです。

イエスは、神の御心に逆らうあらゆる悪に立ち向かいました。罪びとの命や、社会の片隅においやられている人の命を、徹底的に守ろうとしました。職業や病気などによって差別されている人、一人一人の人々に「あなたは神さまの子ども。神さまはあなたを愛している」と伝えたのです。それは、神さまの御心でした。私たちは時に、この世の価値観や、現代社会の価値観で、「命はどうでもいい存在。何か優れた働きをしなければ価値がない」と、レッテルをはってしまうことがあります。しかし、よくよく考えてみますと、それは人間の勝手に作り上げた、一時的な価値観にすぎないことがみえてくるのです。神さまに愛されるために、何か特別なことをする必要はありません。神さまの愛は、何もできなかったとしても、あなたがあなたというだけで、受け入れるだけでいいのです。神さまの御心を行うために、まずは神さまの愛を受け取り、「自分は愛される価値はない」という思い込みを捨てること、愛されるためには心を開き、神さまの愛を受け入れるだけでいいのです。