マルコによる福音書


聖書の言葉

1一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、 2言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。 3もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」 4二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。 5すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。 6二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。 7二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。 8多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。 9そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ホサナ。
主の名によって来られる方に、
祝福があるように。
10我らの父ダビデの来るべき国に、
祝福があるように。
いと高きところにホサナ。」
11こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。(マルコ11・1-11)

バイブル・メッセージ

イエスは、ロバを必要としました。ロバにのると、ロバは小さな動物から、乗ると群衆の人たちと目線が同じになるのです。イエスは、上から人々を見下ろす方ではなく、私たちと同じ目線にたってくださる方。この方は、小さく子供のロバを必要とされました。それには、イエスの主張があります。「私は、あなたがたが思う王ではない」ということです。イスラエルの民たちは、ローマ帝国に勝利するような、力強い王を思い描いていました。人々が、熱狂しているのも、それを期待したのでしょう。しかし、イエスは、自分がそのような王ではないことを、主張したのでしょう。ロバは、馬よりもはるか昔から、人々をのせた動物として使われていたそうです。人をのせるのは自然なことでした。しかし、ロバは歩くスピードが遅く、小さい生き物でした。馬のほうが、王として理想的で、似合っていたのではないか、と私たちは思います。しかし、馬は軍事的なイメージがありました。一方、ロバは、平和の象徴としてイメージされていました。ゼカリヤ99節でも「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。」とあります。

 ロバは、自分なんて役不足だし、能力がないと思っていたかもしれません。自分より優れているのは、馬のほうが、よっぽど力強いのです。私たち人も、自分を見つめる時に「自分は神さまに必要されているのかどうか」、時には悩んでしまうことがあります。しかし神さまは、人からたとえ立派だ、素晴らしい、えらいといわれなくても、たとえ目立たなくても、神さまは必要とされるのです。

「自分なんて、役に立たない」と嘆くのは、実は謙遜ではなく、傲慢であるかもしれません。神さまは、一人一人を作られたときに、一人一人に賜物を与えてくださっているからです。神様に愛されるために、何か役にたつことが必要ではありません。神さまに創造された自分の命を精一杯生きているだけで、神様に愛されるのです。つい、自分の価値を、何ができるか、社会でどんな役に立っているか、で評価しがちになってしまいます。しかし、神様はただ咲いている野の花を、社会で何の役にも立っていないような空の鳥を、生きているだけで愛してくださっているのです。「私は社会で何の役にも立っていない」と落胆するとき、野の早、空の鳥を見上げましょう。神様に愛された命を、自分らしく精一杯生きてゆけばよいのです

 

人々は、イエスを軍事的な王として期待していたのでしょう。「これでやっと、ユダヤはローマ帝国から解決される」。人々の熱狂は、頂点に達しています。しかし、イエスが目指したのは、軍事的な王ではありませんでした。イエスは、私たちの罪を心配し、誰もが神さまの前で赦されるために、イスラエルへと入城されたのです。

 私たちも、神さまは自分の思い通りにしてほしいと、勘違いしてしまうことがあります。順調な時は、神さまは本当におられると思い、そうでないときは、神さまは本当にいるのか、疑問に思ってしまうのです。

 

イスラエルの民たちも、数日先は、「イエスを十字架にかけろ」と叫ぶものとなったのです。自分の思い通りになることは、もちろん、心地よいことかもしれません。しかし、私たちの人生の道は、自分で計画していないことが起こることが、しばしばあります。聖書をひらいてみますと、箴言169節では「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。」と言っています。自分の思った通りにならなくても、神様が準備して下さった道なら、それが一番いい道なのです。神さまが準備してくださったのであれば、それは間違いがありません。神さまに与えられた道であるなら、「今の自分」を否定するのは、もったいないことです。

 

自分に思いどおりに、なんでもさせようとするとき、私たちは不安になってきます。「もっと自分が変わらなければ神さまに愛されない、弱い自分は神さまに見捨てられる」と思ったら、ますます焦ってしまいます。しかし、人の歩みは他人と競争し、打ち勝つためにあるのではありません。ロバがゆっくり自分のペースで歩み、神さまのご用のために使命を果たしたように、自分らしく自分のペースで、神さまと隣人と助け合いながら、神さまの使命を果たせばよいのです。