マルコによる福音書


マルコ114-20

 

 ヨハネが捕られられた後、イエス様はガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えました。福音とは、神さまに赦し請えば誰もが赦されることです。私たちは、何度でもいつからでも、人生をやり直すことができるのです。

 ペテロたちは、すべてを捨てて、イエス様の弟子に喜んでなりました。一歩を踏み出す勇気があれば、誰もが弟子になりえるのです。この人生で、一番の幸せは、神さまと共に歩めることです。これ以上の幸いや、慰めはありません。神さまと歩む一歩を、踏み出してゆきましょう。

 

黙想

・福音とは、神に赦しを請えば、赦してもらえることです。

・「こんな罪は赦されない」と絶望する必要はありません。私たちは、何度でも、いつからでも人生をやり直すことができます。

・ペテロたちは、こんな先生の弟子になれるなんてないことだ、と思って、すべてを捨てて弟子になったことでしょう。

バイブルメッセージ

1、福音とは

イエス様は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。「自分なんて、赦されない罪人なんだ」と絶望している者に、イエス様は「あなたも神によって赦される大切な存在。あなたも、私の大切な神様の子供」と呼んだと思います。マルコによる福音書2章5節には、イエス様は病をもっている患者さんに、「子よ、あなたの罪は赦される」と言っている箇所があります。イエス様は患者さんにむかって、「子よ」という、呼びかけ方を用いられました。その呼びかけは、患者さんだけではなく、私たち一人一人にも、あなたは大切な子どもとして、呼んでくださるのだと思います。

マルコによる福音書3章10節には、「イエス様が多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエス様に触れようとして、そばに押し寄せたからであった。」と書かれています。病気や職業のゆえに、また律法を上手に守られなかった人たちは社会から冷たい目でみられ、安心できる居場所がなかったと思います。しかしイエス様と出会い、「自分はこんなにも愛されているんだ。こんなにも、自分のことを喜んでくださる方がいるんだ」と確信したと思います。

福音をどのように考えるのは、いろいろな意見があると思います。しかし、私自身は、福音とは「神さまは、あなたを愛している」という、イエス様の愛ではないのか、と考えています。私たちの使命は一人一人違います。しかし、一つの使命として、「自分は生きていてもしょうがないんだ。誰も必要とされていないんだ」と思い込んでいる方たちに、「神さまは、あなたを必要とし、あなたは神さまに愛されている存在です」と神さまの愛を届けることが、使命の一つではないか、と思います。

イエス様は、のちのペトロであるシモンと、その兄弟アンデレに、「私について来なさい」と呼びかけます。二人は網を捨てて、イエス様に従いました。シモンたちにとって、網はお金を稼ぐもので、自分の誇りがつまっていたことでしょう。人は、どうしても自分の力に頼ってしまうときがあります。自分の力で仕事や福音宣教をしてしまいがちです。しかし、生活も仕事も、人間の力だけで、できることではないのだ、とイエス様は教えられたのだと思います。イエス様にとっては、一人ひとりの才能ではなく、一人ひとりの存在そのものが大切でした。「あなたがいてくれれば、それだけで私は嬉しい」と言ったのだと思います。


2、現代の価値観

よくよく考えてみますと、何かができるから人間には価値がある、という考えが社会に広がっている感じがします。「もっともっと、ああしなさい」と相手に成長を求めます。もっと自分は魅力的にならなければならない、もっと成長しなければならない、とお互いに焦っている感じがします。

イエス様の生きていた時代も、ファリサイ派や律法学者たちは、厳しい目で、お互いに監視していました。そして、少しでもはみ出した人や、律法を守られない人たちを罪びとと定め、見下していました。現代ももしかして、お互いを監視しあう時代に、近づいているのではないか、と思うのです。

しかし、パウロは、ローマの手紙12章2節で「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。」というのです。この世の中と妥協してはならない、というのです。神さまは、天地を創造されました。そして私たちの命も神さまの手によって、一人一人大切に創られ、愛されてうまれてきました。どんなに弱く小さくても、神さまによって造られた一人ひとりは、かぎりなく尊い存在であるのです。神さまによって造られた命は、そのままで価値がある。聖書には、そのような価値観がこめられていると思います。

世の光というラジオ放送を聞きました。その中で、埼玉県川口市にある鳩ケ谷(はとがや)福音自由教会の牧師である、大嶋重徳(おおしましげのり)牧師は、次のように言っていました。『現代は、人の価値が生産性で測られる時代です。会社の役に立っているのか、社会の役に立っているのか、家族の役に立っているのか、そこに生産性があるのかということを問われる時代です。では、キリスト教信仰は、何をもって人の価値が図られるのでしょうか。それは、あなたがそこにいてくれることです。』

私はこれを聞いて、イエス様が弟子たちに求めたのは、「あなたがそこにいるだけでよい」ということだったと思いました。神さまが、一人一人を作り愛されたゆえに、あなたがあなたであるがゆえに、それだけで価値がある、ということです。

神さまは、わたしたちがたとえ何もふさわしいものがなくても、あなたを愛する、と呼び掛けてくださるのです。あなたを愛する、と決めた方がいるのです。「私は、なにがあろうともあなたを離さない。」と決断した方がおられるのです。愛されるために、特別なことは必要ないのです。自分以上の自分を演じて、大きくなろうと必死になっていきることでもありません。ただ、神さまの愛に心を開き、「あなたの愛を信じます」と、神さまの言葉をまっすぐ受け止めることだと思います。神さまは、「あなたで大丈夫だから、あなたでついてきなさい」と呼びかけてくださるのです。

ペテロも、「あなたを絶対裏切りません」と告白したのに、裏切りました。ペテロは、「もう私は赦されない」と、後悔した時があったかもしれません。しかし、復活したイエス様は、あっさり弟子たちの罪を赦しました。弟子たちは、赦されて、新しく立ち上がりました。裏切ったことは残念なことでした。しかし、それによって赦される体験を知り、神様の愛を経験しったのです。赦される経験をしていないと、もしかして自分たちの才能によって伝道したかもしれません。弱い人を、「あなたはクリスチャンらしくない。失格だ」と裁いていたかもしれません。しかし、弟子たちは、自分たちの弱さを徹底的に知りました。裏切ったことは残念なことでしたが、神さまをそれを通して、様々な恵みを弟子たちに教えました。キリストの愛からわたしたちを引き離すものはありません。この年も、「私は神さまに愛されている」と確信し、神さまに委ねてすごしてゆけるように、祈りたいと思います。