マルコによる福音書


マルコ827-30

 

イエス様はメシア、救い主です。救い主とは、「あなたによって、人生の迷いがとけました。あなたによって、自分が神さまに愛されている子どもと知りました。どこまでも、あなたに従ってゆきます」ということでしょう。ペトロは、信仰を告白したのです。

 私たちも、人生で迷う時があります。生きている意味を知りたくなります。その時は、聖書を開きましょう。聖書は、天のお父さんから私たちへの、ラブレターです。人生で迷ったとき、どうしたらよいのか、イエス様を見つめれば、見えてくるでしょう。

 

黙想

・イエス様は弟子たちと、フィリポ・カイサリア地方の方々の村へ出かけました。

・その時にイエス様は、「人々は、わたしのことを何ものだと言っているのか」尋ねます。

 

・ペトロは、「あなたは、メシアです」と信仰を告白するのです。

バイブルメッセージ

  1. ペテロは、イエスをメシアと呼びました。メシアをギリシャ語でキリストになります。ペトロがイエスをメシアといった言葉の中に、信仰が要約されているように思います。片柳神父のバイブルエッセイに書かれていましたが、それは、「あなたによって、わたしの人生の迷いが消え去りました。あなたに愛され、神様の子供にされています。私はどこまでも、あなたに喜んで従ってゆきます」と、ペトロは様々な思いがつまっていたのでしょう。ペトロの短い告白を、イエスはしっかり受け止めてくださいました。この後ペトロはイエスの受難を否定し、イエスから厳しく注意されてしまいます。しかしたとえペトロは完璧でなくても、精一杯の告白を、イエスは喜んで受け入れてくださいました。それは、私たちが完璧になったら神様に喜ばれるのではないからです。人間であるゆえに失敗を犯してしまっても、それを通して少しずつ成長させてくださる方。完璧になるまで準備して待っていては、なにも始めることはできません。人は誰もが間違いを犯し、完璧な人はいません。失敗を恐れることなく、とりあえずはじめてみてよいのです。神様は、わたしたちを裁く方ではなく、愛し赦される方。失敗を犯し、迷子になりやすい私たちをいつも見守り、迷子になっても、見つかるまで探しだしてくださる方なのです。神さまは、羊飼いとして私たちを導き、わたしたちの道を、準備してくださる方でもあります。神様が準備してくれた道は一番いい道。自分の思いどおりにならなくても、よいのです。「将来はこうであるべき」という思い込みを捨てたら、ずっと楽になります。もちろん、夢をもち、希望をもつことは大切です。しかし、絶対にこうでなければならないと思うのは、自分を縛ってしまうことになります。たとえこうでなくても、自分の思い通りにならなくても、「それはそれでよいんだ」「神さまが準備してくださるから、この道でいいんだ」と思えるゆとりが大切でしょう。思い込みを捨てれば、道はいくらでも見つかるのです。

キリスト者は、イエスをメシアと告白します。イエスとの関係こそが、どんな関係よりも大切であるとみとめています。しかし、人は神様との関係でなく、人間の評価や人間関係を気にしすぎてしまうことがあります。人間に評価されているから私は価値があると気になってしまったら、それは地上のものに土台を置いてしまっていることになります。もしころりと、明日から他人の評価が変わったら、自分の人生を見失うことになるでしょう。反対に、もし誰からも評価されなくても、「今日も神様に愛されている。それだけで私は満足だ」、と神様の恵みに土台を置いているなら、自分の人生を神様に土台を置いていることになります。神様の関係の上に土台を置いていたら、どんな嵐が襲ってきても流されることはありません。


3、神さまのよびかけ

ペトロは、メシアと告白しましたが、イエスが苦しみを受けられることを否定しました。自分の考えを捨てきれなかったのです。イエスは、力によって武力で解決するメシアではなく、私たちの弱さと罪を赦すために、十字架へと向かわれるメシアだったのです。ペトロは、はっきり神のことを思わず、と指摘されます。ペトロは、自分の理想的なメシア像を捨てきれませんでした。ペトロが忘れていたのは、聞く、ということでした。パウロも、ローマの手紙10章17節で「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」と言います。信仰は神様の恵みの言葉に耳を傾けることによって、はじまると私は思います。

聖書の言葉を通して、イエスは一人一人に語りかけています。自分の価値や、自信を失っている方に「あなたは愛されている、神様の子供」と呼びかけているでしょう。また、罪責感で苦しみ自分を責めているひとに、「イエスはあなたを赦している」と呼びかけています。憐れみ深い神様の言葉の特徴は、愛のぬくもりにあふれていること。神様は愛であり、どんな時も、慈しみをもって私たち一人一人に呼びかけてくださる、天のお父さんなのです。走りまわってばかりでは、疲れはててしまいます。時には神様の前で静まり、余計な荷物をおろしてよいのです。自分が背負っている荷物をチェックしてみて、無理をしていたら、少し荷物を減らせばよいのです。祈りを通して、誰かと相談する中で、またカウンセリングをうけるなかで、自分の無理をしていることが少しずつ分かってきます。背伸びをしていたら、いつか無理がきてしまいます。肩の力をぬき、自然体な自分でよいのです。イエスは弟子を宣教の旅に派遣するときの言葉が、マルコによる福音書6章に記されています。そこには、「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。」と書いてあります。人は、旅するとき、何かをはじめる時、「あれも必要だ、これも必要だ」と、思ってしまいます。全部完璧に準備がそろったら出発できる。人は、そう思いがちです。しかしイエスは、杖の他には、なにも持つな、パンもお金も持たないでゆきなさい、と弟子に教えるのです。弟子たちは、二人組で杖以外もたずに派遣されました。宣教の旅先で、誰かにご馳走になったかもしれませんし、宿泊させてもらったことでしょう。福音を教えることも大切ですが、困ったときは無理せず助けられることも大切なのです。誰かと支え合い、わかちあうこと。そして感謝すること。イエスの弟子たちは、人々の優しさにふれ、支えあって旅をしてゆきました。イエスは、どんなときも神様が道を準備してくださるから安心しなさいと、弟子たちに教えたかったのでしょう。仕事や生活のなかでも、どんなに準備がそろっていなく失敗をしてしまう私たちにもかかわらず、神様の使命のために私たちを用いてくださるのです。ペトロのように、時には神のことを思わない時があり、間違いを犯してしまうこともあるでしょう。間違いを犯してもイエスはペトロを赦し、愛されました。私たちも、日々神様に赦されて、繰り返し新しくはじめる力を神様は与えてくださるのです。ペトロが告白したように、私たちもイエスをメシアと告白し、イエスに喜んで従ってゆけるように祈りましょう。