マルコによる福音書


聖書の言葉

27イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。
『わたしは羊飼いを打つ。
すると、羊は散ってしまう』
と書いてあるからだ。 28しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」 29するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。 30イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 31ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。(マルコ14・27-31)

バイブル・メッセージ

弟子たちが、オリーブ山で「イエス様、あなたを裏切ることはしません」と強がりますが、イエスに裏切ることがばれてしまいます。このオリーブ山の出来事を読むたびに、自分たちの弱さを思い出したことでしょう。もし履歴書を書くとすると、弟子たちの誰もがイエスを裏切る失敗を犯していたことが記されていたでしょう。弟子たちは、自分の過ちをおそらく誰かに告白したのでしょう。過ちを、自分の心にだけ隠さなかったのです。福音書の記者たちは、口から口へと口伝伝承で伝わってきた弟子たちの失敗を聞き、それを正直に記しています。初期の教会の指導者的な立場にあったペテロも、人がもつ弱さから、抜け出せませんでした。それはなにも、ペテロやイエスの弟子だけではありませんでした。神さまに、福音宣教者として用いられたサウロ、のちのパウロも、教会を迫害する者でした。クリスチャンであったステファノという人物を殺害することに、パウロは賛成していたと、使徒言行録8章1節に書かれています。パウロは、イエスと出会う前には、正義感と律法を守る熱心さから、クリスチャンたちを攻撃していました。「律法に定められているから、神を信ずるものはこうでなければならない」と規則を決め、その規則で人を裁いてしまっていたのです。パウロは、クリスチャンたちを見て「自分は規則を守っているけれど、あの人たちは守っていない。わたしは正しいけれど、あの人たちは間違っている」と考え、裁いていたのです。

 

しかし、パウロは、イエスと出会いクリスチャンとなります。初期教会のクリスチャンたちは、パウロを責めることができたはずです。なぜなら、一人の死刑に賛成し、多くの人たちを傷つけたからです。使徒言行録9章26節には、「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。」と書かれています。パウロは、人々から恐れられていた、怖い人物だったのです。ステファノの家族の人たちは、パウロを赦せなくても仕方がないことでした。しかしクリスチャンたちは、パウロの過去や罪を赦したのでしょう。赦された経験をしたパウロは、エフェソの信徒への手紙で「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」と、赦しを伝える者になりました。パウロにとって、ただ神様を愛するだけではなく、人間と人間が赦しあうことを伝えることも、キリスト教徒の使命だとみていました。第2コリントでは、「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」とパウロはいいます。神と人、人と人の和解を、神様から与えられた使命として考えていました。弟子たちの使命は、誰一人としてゆるされないまま残る人がいないように、すべての人に神の愛を伝え、すべての人を神との和解に導くことでしょう。

 

イエスの死後、命惜しさにイエスを置き去りにし、逃げ出してしまった弱さを弟子たちは痛切に反省していたことでしょう。部屋に鍵をかけて、外が恐く、とじこもっていたことでしょう。 神は、そんな弟子たちに「あなたたちの弱さも含めてわたしはゆるし、受け入れている」と、なんとしてでも伝える必要がありました。復活したイエスは、弟子たちに「平和があるように」と伝えます。イエスには、自分を裏切った憎しみなど、ありませんでした。神は、わたしたちの弱さ、不完全さを知りながら、それでもわたしたちをゆるし、愛してくださる方。優れた行いによってではなく、たとえ何も出来なかったとしても、私たちを神様の子供として愛してくださる方なのです。

 

弟子たちは、神様に徹底的に赦される体験が必要でした。弟子たちは赦され、もう一度やりなおす力が聖霊によって与えられました。「私は赦されない」と嘆くのではなく、「こんな私でも、神様によって赦されるんだ。あなたも、神様に赦される大切な存在」と宣教していったのです。弟子たちは赦され、自分を赦すことができました。時に自分を赦すことができない時、他者も同じように裁いてしまうことがあります。不甲斐ない自分を認めることができず、理想の自分を演じてしまうことがあります。しかし、失敗した弟子たちが赦されたように、イエスは弱い人間を、正面から受け止めてくださいます。「神様の赦しが信じられない」とき、自分を責めてしまうことがあります。自分を赦すことが難しい時があります。なぜ、わたしたちは自分で自分を裁き、苦しめてしまうのでしょう。それはきっと、その人の中に、「今の自分ではだめだ、もっと優れた自分にならなければ生きる価値がない」という思い込みがあるからでしょう。それは、大きな誤解です。神様は、たくさんの弱さや罪深さを抱えたわたしたちを愛して下さっているからです。わたしたち人間は、誰もが弱くて罪深い存在にすぎないけれども、それでも神は愛してくださるのです。わたしたちの心の中には、自分は自分の力で今よりもよくなることができると思いがあります。しかし、人間をまっすぐ見つめれば、どんなにがんばっても弱さや罪深さを克服できない、それが現実なのです。自分の力では自分を変えることさえできないくらい弱くて小さな存在なのです。わたしたちにできるのは、自分の弱さ、小ささを受け入れ、神に助けを願うことだけです。

 

ゲッセマネでは、イエスはひどく恐れ、祈っているときに共にいてくれる弟子たちを必要としました。イエスは、そばに誰かがいてほしかったのです。その中で、イエスは祈り、神様に委ねる決心をしました。イエスにならって、「未来はこうあるべき」と自分を縛るのではなく、「あなたにお任せします」と神に委ね、神様の愛された子供として歩んでゆけるように、祈りましょう。