マルコによる福音書


聖書の言葉

1数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、 2大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、 3四人の男が中風の人を運んで来た。 4しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。 5イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。 6ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。 7「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」 8イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。 9中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。 10人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。 11「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」 12その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。(マルコ2・1-12)

 

黙想

 

寝たきりの中風の人は、周りでイエスが来たという情報を聞いていたでしょう。しかし、自分の力では動くことができません。イエス様に会いたくても、会いにいけません。しかし、その患者さんを思ってくれた4人の男の人たちがいました。その人たちのおかげで、中風の人は、イエス様の前までいくことができました。

 イエス様は、4人の男たちの信仰をみて、この寝たきりの中風の人に、「大切な息子よ、あなたの罪は赦されます」と言いました。自分の一人の信仰ではなく、友のためにとりなす祈り、祈れない人のために祈る信仰。それこそ、教会を動かす信仰なのです。

 

・カファルナウムでの出来事

4人の男が、中風の人を運んできた。

・この中風の人は、自分の力ではイエス様のところにいくことができなかった

・運ばれて、やっとイエス様のところに行くことができた

・イエス様は、4人の男の信仰を見て、中風の人に、子よ、あなたの罪は赦される、と言った。

・この寝たきりの男の信仰は、まったく考慮にいれられていない。

・教会を動かす力は、自分の力強い信仰でもなく、立派な信仰でもない。このように、寝たきりの人を運ぶ信仰であり、とりなしの祈りである。

 

バイブルメッセージ

1、カファルナウム

今日の聖書テキストは、カファルナウムの町に、「イエスがいられる」という噂が広がっている、というところからはじまっています。もしかして、この萎えた男性も、何かが起こっているのを、感じたかもしれません。けれども、一つ問題がありました。それは、この男は中風であった、ということです。ギリシア語の原語では「体が動かない者」という意味です。そうです、動かないのです。この萎えた男も、イエスのところへいきたい。けれども、動かないのです。けれども、どうしたことでしょう。この萎えた男は、4人の男と出会います。福音書記者マルコは、3節で「四人の男が中風の人を運んで来た。」と報告しています。


  1. 問題があった

    しかし、せっかくついてみたものの、「しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかった」のです。けれども、この4人の男性たちはとんでもない方法を考えます。それは、イエスのおられるあたりで屋根をはがして、穴をあけるというのです。「だいたい、ここらへんかね」、いやそこではない。「じゃあ、ここらへんかね確かめてきてくれ」という男たちの声がきこえてきそうです。そして、イエスのおられるあたりを定めて、穴をあけたのです。けれども、下にいる人には、埃がかぶったかもしれません。ましてや、主イエスのおられるあたりです。これは大変です。人の家を破壊しているのです。そのような中、一人の男がつりおろされてくるのです。しかも、立派な行いをしたから、というのではありません。では主イエスが、この萎えた男をどのように扱われたのか、よく注意してみたいと思います。マルコが語るとおりに、イエスが何を語り、何をなさったのか私が朗読するのが最善でしょう。「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦された』と言われた。」


3、相互の助け合い

私たちが驚くのは、第一に、この人たちの信仰を見て、というのです。萎えた男性の信仰を見てというのではありません。実に、すっかりこの寝たきりの男性は、みられていないどころか、その信仰すら考慮されていません。けれども、この萎えた男のために飛び込んできてくれた4人を、イエスは信仰とよんでくださいました。

私どもが見るのは、まったく動けなくなった時に、人を真に生かすのは力でもありません。自分を誇る力ではありません。自分の背伸びでもありません。それは、時には身をゆだねることであり、時には運びあう、という「相互の交わり」です。私達は時には、自分の力のなさに悩むことがあります。こんな自分では、こんな失敗だけの奴では、なんだか「存在してはいけない」「いてはならない」「自分の場所がない」と悩んでおられる方もおられるかもしれません。

そういう時です。そういうときにこそ、この4人の男たちのとりなし、それは、一人の人の辛さや、痛み、悲しみを自分のものとして、そして運んできてくれたという、聖徒の交わりを感じたいのです。

弱いから捨てられる、失敗したら最後であるのではありません。弱くても、それでも捨てられないのです。もし失敗しても、とりなしあい、もう一度新しくやりなおせるのです。だから私達は、自分の名誉や評価にしがみつく人生から解き放たれるのです。大胆に悲しみ、大胆に失敗するのです。


4、罪の赦し

 第二の驚きは、寝たきりの男性への、罪の許しの宣言です。私は、この聖書テキストを読んで、第一に焦りました。

 「この寝たきりの男性は、運ばれてきた」のであり、自分の力では決してイエスの前までくることができなかったのです。しかも、その運ばれ方は、軌道をはずしています。

まったく、迷惑をかけた存在です。素晴らしい行いをしたとか、かかれていません。

 しかしイエスは、この男性に、罪の許しの宣言をしたのです。「子よ」というよびかけ、もう少し別の訳し方をすると、「私の息子よ」というよびかけは、この物語において、けっしてたいした意味もない美辞麗句だけではありません。それは、まったく「その人の業績、評価、素晴らしい行いではなく」、主イエスの前にたつ者の存在そのものが、神の自由な決断の前におかれることを示しています。そしてイエスは、私の息子よ、とよびかけたのです。多くの人たちは、この萎えた男を「役立たず」とよんでいたかもしれない。けれども、イエスは、「私の息子よ」とよびかけるのです。


5、驚き

さて、イエスは、この萎えた男に「起き上がりなさい」とおっしゃいます。今までは、全てを恵みによってなしていたのに、最後に「萎えた男が自分ですること」は、一つだけ語られていました。それが、「起き上がりなさい」という言葉です。

私どもも、これからイエスは何を考えていたのか、やはり「自分の足でいきていかなければならないのか」と、思う方もおられるかもしれません。けれども、ここで語った主イエスの起き上がりなさいとは、決して病の癒しや、自立だけをのべているだけではありません。

それは、神の言葉により、その人の人生の回復することであり、その人が神の前でいきていく回復を最も明白に示している言葉です。

その人のこれからの歩みが、たとえ迷いやすく、倒れやすいことかを、イエスはごぞんじで合ったと思います。なぜなら、主イエスは受難への道を歩まれるからです。けれども、主は「起き上がりなさい」といわれます。私達も、このイエスのみことばに、繰り返し繰り返し、慰められるのです。

転ぶこともあります。すっかり、くずれてしまうことがあります。

けれども、そのたびごとにイエスは、あなたがあなたの足で「起き上がりなさい」と呼びかけてくださるのです。起き上がっても大丈夫だ、励ましてくださるのです。