マルコによる福音書


聖書の言葉

1安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。 2そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。 3彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。 4ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。 5墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。 6若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。 7さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」 8婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。(マルコ16・1-8)

 

黙想

 

天使は、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と、マグダラのマリアたちに言いました。私たちは、暗闇の墓の中にいるのではなく、神さまの愛の光が照らす復活の世界に生きているのです。墓は、空っぽだったのです。

 婦人たちは墓を出て逃げ去りました。震え上がり、正気を失っていたのです。そして、だれにも言わなかった、恐ろしかったからであると、聖書には書かれています。つまり、失敗してしまった、ということです。弟子たちも、イエス様から逃げ去り、女性たちも怖くて、逃げ去りました。誰もが、失敗したのです。にもかかわらず、神さまはそんな人間を愛し、ガリラヤという場所で、イエス様と出会った場所で、新しくはじめてくださるのです。私たちは、間違いを犯します。弱い存在です。しかし、それで終わりではないのです。そこからスタートできるのです。神さまを信じるとは、「まだまだ大丈夫。これからの道も、神さまに導かれ一歩を進みましょう」ということです。まだまだ大丈夫なのです。確かに、弱点を抱えています。だからといって、神さまの愛はとまらないのです。愛の光で、いつも照らしてくださるのです。

 

バイブルメッセージ

1、3人の女性

日曜日の朝、三人の女性はイエスの葬られた墓に向かいました。しかし、墓は空っぽでした。今日の聖書箇所ではイエスの弟子たちはでてきませんが、おそらく隠れていたのでしょう。イエスを裏切ってしまった後悔で、「なんてことをしてしまったんだ」と絶望していたのでしょう。聖書には4つの福音書があります。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネです。イエスの生涯や教えなど記録されています。ルカ福音書によれば、イエスが裏切った弟子たちの前にあらわれ、「あなたがたに平和があるように」と挨拶しています。それは、イエスは弟子たちをこれっぽっちも憎んでいませんよ、ということでしょう。


2、弟子たちの履歴書

弟子たちは、履歴書を書くとすると、弟子の誰もがイエスを裏切る失敗を犯していました。弟子たちは、自分の過ちをおそらく誰かに告白したのでしょう。自分の心にだけ過ちを隠さなかったのです。福音書の記者たちは、口から口へと口伝伝承で伝わってきた弟子たちの失敗も、正直に記しています。初期の教会の指導者的な立場にあったペテロも、人がもつ弱さから、抜け出せませんでした。ペテロだけではありません。

 パウロも、教会を迫害していました。クリスチャンであったステファノという人物を殺害することに、パウロは賛成していたと、使徒言行録8章1節に書かれています。パウロは、イエスと出会う前には、正義感と律法を守る熱心さから、クリスチャンたちを攻撃していました。「律法に定められているから、神を信ずるものは、こうでなければならない」と規則を決め、その規則で人を裁いてしまっていたのです。パウロは、クリスチャンたちを見て「自分は規則を守っているけれど、あの人たちは守っていない。わたしは正しいけれど、あの人たちは間違っている」と考え、裁いていたのです。

しかし、パウロは、イエスと出会いクリスチャンとなります。初期教会のクリスチャンたちは、パウロを責めることができたはずです。なぜなら、一人の死刑に賛成し、多くの人たちを傷つけたからです。ステファノの家族の人たちは、パウロを赦せなくても仕方がないことでしょう。しかしクリスチャンたちは、パウロを赦したのでしょう。赦された経験をしたパウロは、エフェソの信徒への手紙で「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」と、赦しを伝える者になりました。パウロにとって、ただ神様を愛するだけではなく、人間と人間が赦しあうことを伝えることも、キリスト教徒の使命だとみていたのでしょう。第2コリントでは、「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」とパウロはいいます。神と人、人と人の和解を、神様から与えられた使命として考えていました。弟子たちの使命は、誰一人としてゆるされないまま残る人がいないように、すべての人に神の愛を伝え、すべての人を神との和解に導くことでしょう。


3、赦された者として

イエスの死後、命惜しさにイエスを置き去りにし、逃げ出してしまった弱さを弟子たちは痛切に反省していたことでしょう。「これほど大きな罪はゆるされない」とさえ思っていたかもしれません。自分自身を嫌い、自己嫌悪に支配されていたかもしれません。部屋に鍵をかけて、外が恐く、とじこもっていたことでしょう。 神は、そんな弟子たちに「あなたたちの弱さも含めてわたしはゆるし、受け入れている」と、なんとしてでも伝える必要がありました。復活したイエスは、弟子たちに「平和があるように」と伝えます。イエスには、自分を裏切った憎しみなど、ありませんでした。神は、わたしたちの弱さ、不完全さを知りながら、それでもわたしたちをゆるし、愛してくださる方。優れた行いによってではなく、たとえ何も出来なかったとしても、私たちを神様の子供として愛してくださる方なのです。

 裏切ったことは残念なことでした。しかし、弟子たちは赦される経験を通して、涙をながし、福音宣教者として用いられる準備を神様は備えてくださったのです。弟子たちは、神様に赦される体験が必要だったのです。そうでなければ、自分の知識や知恵を頼りに、強引な手段で福音宣教をしていたかもしれません。聖霊の力に頼らず、自分の行いを重視し、イエスが宣教した福音とまったく異質な教えが宣教されていたかもしれません。そして、律法学者やファリサイ派と同じく罪を犯した人の弱さに共感できずに、「あなたは、罪人」と裁いていた宗教集団になっていたかもしれません。そうであれば、イエスの願われた、互いに赦しあい、互いに愛し合う使命を果たせなくなります。


4、やり直す力

弟子たちは、神様に徹底的に赦される体験が必要だったのです。弟子たちは赦され、もう一度やりなおす力が聖霊によって与えられました。「私は赦されない」と嘆くのではなく、「こんな私でも、神様によって赦されるんだ。あなたも、神様に赦される大切な存在」と宣教していったのです。弟子たちは赦され、自分を赦すことができました。時に自分を赦すことができない時、他者も同じように裁いてしまうことがあります。不甲斐ない自分を認めることができず、理想の自分を演じてしまうことがあります。しかし、失敗した弟子たちが赦されたように、イエスは弱い人間を、正面から受け止めてくださいます。「神様の赦しが信じられない」とき、自分を責めてしまうことがあります。自分を赦すことが難しい時があります。なぜ、わたしたちは自分で自分を裁き、苦しめてしまうのでしょう。それはきっと、その人の中に、「今の自分ではだめだ、もっと優れた自分にならなければ生きる価値がない」という思い込みがあるからでしょう。それは、大きな誤解です。神様は、たくさんの弱さや罪深さを抱えたわたしたちを愛して下さっているからです。わたしたち人間は、誰もが弱くて罪深い存在にすぎないけれども、それでも神は愛してくださるのです。自分自身の理想に縛られる必要はありません。少し目標を下げてみて、自分にちょうどよい荷物を背負えばよいのです。理想通りになれなくても、「まあ、これくらいの自分で良いか」と、ちょうどよい自分を探してよいのです。


5、弟子を必要としたイエス

イエスは12人弟子を必要としました。ルカによる福音書10章1節には、「その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。」とありますから、72人もイエスから福音宣教をお願いされていたことがわかります。他にもっと沢山、男性も女性もイエスに従っていたでしょう。イエスは、多くの人たちの協力を必要としました。イエスは神であったので、一人で福音宣教をすることは可能でした。効率的にも、一人でやったほうがよかったのかもしれません。それでも、イエスは弟子を必要とされ、互いに支えあい、助け合う道を選ばれました。福音宣教のさいも、一人で派遣しなく、二人ずつ行かせました。一人が怪我をしても、二人なら助け合えます。二人ならさまざまな困難でも協力して立ち向かえるのです。将来、どの弟子も自分から離れていく現実を知っていたことでしょう。それでもイエスは、弟子たちを信頼していました。なにもかも1人でする必要はないのです。一人でできないなら、二人ではじめてみればよいのです。私たちが、互いに重荷を支えあうことは、イエスのみ心でした。

イエスに倣って、私たちも互いに赦しあうことができます。しかし、つい自分の「こうであるべき」という価値観を、生活で他人に押し付けてしまいがちです。タンポポにはタンポポの花を咲かせ、バラにはバラの花を咲かせれば良いのに、無理やり変えてしまいそうになるときがあります。周りから、批判され続けると人はだんだん、自分という花に自信がなくなってきます。そうすれば、神様がせっかく愛して作ってくださった自分らしい花を咲かせることはできません。しかし、本来命は、どの命が大切で、あの命が大切だと優劣が決められないように、一人一人の命は神様に作られ、生きているだけで尊い存在です。一人一人が、神様から与えられた花を精一杯生きるとき、喜びが生まれるのです。一人一人は神様から異なった種を与えられています。神様に赦されているとは、飾った自分ではなく、あるがままの自分で良いということ。神様はおおらかに、私たちの歩みを見守っているのです。赦されたものとして、隣人と力をあわせ、わかちあう仲間となれるように、神様に祈りましょう。