マルコによる福音書


マルコ1・21-28

 

イエス様は、カファルナウムにいました。安息日に会堂で教えられているとき、会堂に汚れた霊に取りつかれている男がいました。「ナザレのイエス、かまわないでくれ」と男の人は叫びました。悪霊は、神さまにどんなに愛されていても、そんなのは関係ない、というのです。ですから、かまわないでくれ、というのは、悪霊の好きな言葉の一つだと思います。神さまの言葉など関係ない、というのです。しかし、それでもイエス様は、「黙れ。この人から出て行け」と命じられます。汚れた霊は、その人から出て行きました。大切なのは、神さまの言葉に耳を傾ける、ということです。悪霊の苦手なのは、神さまの言葉なのです。神さまの言葉は、「あなたは、愛されている、かけがえのない大切な神さまの子ども」ということです。静かな喜びが、心の奥底から湧いて来るのです。それは、どんな欲望も、虚しさも、消え去る者です。神さまのみ言葉に耳を傾けていきましょう。

バイブルメッセージ

カファルナウムは、ペトロの自宅があったところです。ガリラヤ湖の北西にありました。イエスは、この場所を拠点にして、福音宣教をしていきます。

聖書協会共同訳では、21節は「一行はカファルナウムに着いた。そして安息日にすぐ、イエスは会堂に入って教えられた」とあります。すぐ、という言葉が、共同訳と違って、原典から翻訳されています。イエスは、あれも準備してから、弟子たちを訓練してからはじめるのではなく、すぐに会堂で教えられました。

会堂とは、旧約聖書に言及はなく、起源は定かではないのですが、バビロン捕囚以降、それぞれの地で聖書を読み、解き明かしをし、礼拝する場所として用いられていました。会堂には会堂長がいて、会衆に律法を忠実に守らせることでした。違反者には罰が与えられました。パウロは2コリントで、「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度」とありますが、これは会堂で違反者として罰をうけたことが記されています。葬儀や結婚式も会堂で行われ、裁判も行われました。

権威あるものとは、律法学者たちは、律法にはこう書いてあるから、このように生きようと、律法がなければなにも語れませんでした。律法に権威があるからです。しかしイエスは、律法を越えていました。「神の国は近づいた」という言葉も、イエスしか言えない言葉だったでしょう。人々は、律法を越えた権威を、イエスに感じとったのです。律法学者がどのような話をしたのかは、想像にすぎませんが、「律法に書いてあるから、こうしなさい」とか、そのような教えだったと思います。あくまでも、律法という枠の中でしか語れませんでした。律法学者は間違えないように、緊張して教えられたのではないでしょうか。律法は、生活の隅々まで定められていました。

安息日にイエスが病人を癒したことも批判されましたから、律法で身動きがとれないくらいになったのでしょう。安息日に人を癒すことができるのは、緊急の時だけでした。ユダヤ人たちは、律法のなかでも安息日はどうあるべきか、かなり気にしていたようです。十戒は、出エジプト記20章に書かれていますが、第4の戒めは、「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」と書いてあります。

大嶋重徳牧師が書いた『自由への指針 今を生きるキリスト者の倫理と十戒』という本があります。その本に以下のように書いてありました。


創世記2章2節には「第7日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた」とあり、この「休む」という言葉は、「やめる」「離れる」という意味であり、後に「安息日」を意味するようになった「シャーバード」という言葉です。忙しい日常の中で、私たちは絶えずプランを立て、前進すること、何か作り出すことを絶えず強いられますし、あるいは絶えず自分自身がそれを求めています。ある神学者は、この安息日のために「やめる」ことを不安にさせる三つの要素として「計画性」「勤勉」「能率」をあげています。一見、非常に良い徳目に思われる行為が、私たちを「忙しさ」という奴隷状態に陥れます。安息日によっても止められない計画性や、安息日を超える勤勉や、安息日をも支配する能率の良さが、私たちを奴隷の状態に引き戻そうとするのです。


引用が長くなりましたが、前進することだけを重視する時代にあって、効率さを求め、神様の前で休息できないことは危機だと思いました。神様の前で休まるとは、お互いの命を尊ぶことです。神様につくられた自分の存在を喜び、神様に与えられた家族や隣人を、喜ぶことです。「あなたには、これが足りない」と不足を嘆くのではなく、神様からつくられた相手を「あなたで十分です」と、満足することです。いつも、何かしなければならないと焦るのではなく、目の前にいる相手をただ喜ぶことです。

イエスは安息日にも、悪霊にとりつかれていた人を癒します。イエスにとって大切なのは、一人の困っている人を救うことでした。どんな掟よりも大切なのは、一人の存在なのです。イエスは「安息日は何もしてはいけない」という当時の、人間の言い伝えで、先祖から受け継がれてきた律法を新しくします。真面目に律法を守っていた人にとっては、イエスが憎くてしょうがなかったでしょう。悪霊は、「かまわないでくれ」といいます。悪霊には悪霊のやり方があるのです。神様の心とは反対なことをいいます。わたしたちは、神様に愛されているのに、悪霊は「あなたは愛されてない」とささやいてきます。

悪霊にとりつかれた人として、マルコ5章で詳しく書かれています。イエスはゲラサ人の地方にいきます。ガリラヤ湖の東側の異邦人の地域でした。イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来ます。この人は墓場を住まいとしており、だれも鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできませんでした。現在でいえば、隔離され、しかも鎖によって監禁されていたことがわかります。周りもひどいですが、悪霊にとりつかれていた人が、いかに軽んじられていたかが分かります。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていたと、マルコによる福音書5章5節に書かれています。悪霊の特徴は、ひとまとめにはいえませんが、自分を傷つけてしまうところにあると思います。石で自分を打ちたたいてしまう。神様につくられた命を自分で傷つけてしまうのです。イエスにとって、ゲラサの悪霊にとりつかれた人もほおっておくことはできませんでした。いくら人々が隔離し、危険な人とみていても、イエスにとっては、かけがえのない大切な一人。どんな過去を背負っていても、イエスとの出会いを通して回復してゆきます。悪霊の声に従い、自分を傷つける必要はないのです。イエスの生きていた当時、悪霊にとりついた人や、重い皮膚病を背負っていた人、なんらかの病にかかっている人は、汚れた存在としてみられていました。中でも重い皮膚病がかかった人は、レビ記13章45節~46節には「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」とあります。重い皮膚病の患者さんだけが住む町で、家族や地域から隔離され、生活していました。また、もし誰かとあうときは、自分で自分のことを「わたしは汚れた者」と言わざるをえなかった。もしかして、自分の命を憎んだかもしれません。この病気は祭司に見せなければなりませんでした。それはこの病気は罪の現れとしてみられていたからです。他の病気は癒されるという表現に対して、この病気は清められる、といいます。この患者さんは、罪人だとみられていたのです。自分は迷惑をかけている、神様に見捨てられた人物だ、と涙をながしていたかもしれません。みんなが怖くて逃げていく存在なのに、イエスは悪霊にとりつかれたひとを癒し、重い皮膚病の患者さんの手をとり、近づかれました。イエスにとっては、神様から見捨てられた人はいなく、すべての人は神様に愛されている子供であることを、伝えたのでしょう。わたしたちは、いつまでも過去に縛られる必要はありません。イエスと出会って、「あなたは汚れてなんかいない。わたしはあなたを愛している」と宣言してくださるのです。神様に愛された子供としての喜びをもって、歩んでゆきたいと思います。