マルコによる福音書


聖書の言葉

1神の子イエス・キリストの福音の初め。
2預言者イザヤの書にこう書いてある。
「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
あなたの道を準備させよう。
3荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。』」
そのとおり、 4洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 5ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 6ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。 7彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 8わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」(マルコ1・1-8)

黙想

福音とは、誰もが神さまに赦しを願えば、神さまに赦されて、かけがえのない大切な愛する子とされることです。福音は、ありのままの姿を愛され、ありのままの自分で輝けることです。誰もが神さまを信ずるなら、希望の光に照らされるのです。

 洗礼者ヨハネは、厳しい荒れ野の生活で、自分のできることと、できないことを知っていたことでしょう。自分の弱さを知り、神さまにより頼む者こそが、どんな困難な時でも福音宣教を果たしてゆけるのです。傲慢という雑草を日々抜きつつ、謙遜の道を歩んでゆきましょう。

 

黙想

・神の子イエス・キリストの福音の初めと、最初に書かれています。

・福音とは、誰もが神さまの前で罪の赦しを願えば赦され、かけがえのない大切な存在とされることです。それは、私たちは愛される神さまの子どもである、ということです。

・洗礼者ヨハネは、荒れ野の厳しい生活の中で、自分の限界を知っていたことでしょう。

・自分のできることと、できないことを洗礼者ヨハネは知り、へりくだって生活していたでしょう。

・自分の力により頼む時、困難があると、無力で崩れ去ってゆきます。

・日々の生活で、傲慢という雑草を、取り除くことができますように。

 

バイブル・メッセージ(洗礼者ヨハネ)

1、 洗礼者ヨハネ

洗礼者ヨハネは、7節で「わたしより優れた方が、後から来られる。わたしは、かがん

でその履物をひもを解く値打ちもない」と言っています。荒れ野での厳しい生活を知り、自分の限界や弱さを知っていた洗礼者ヨハネは、実に謙遜な人でした。謙遜な人は、心がまっすぐで、神さまから与えられた使命を喜んで受け入れることができます。すべての人に与えられた使命を尊重することができます。そして、人々と協力しながら、自分の使命をまっすぐに進んでいくのです。洗礼者ヨハネが素晴らしいのは、自分の使命をわきまえているところです。自分が主役でないことを知っています。ただイエス様の栄光のために自分の人生を捧げています。

 神さまは、私たちにも、一人一人に、大切な使命を与えられています。人は誰もが弱さを抱え、完璧を備えた人はいないのです。しかし、神さまは私たちを愛し、受け入れてくださっているのです。完璧になるまで、準備してから、何かをはじめる必要はないと思います。神さまは、失敗を繰り返す中で、少しずつ私たちを成長させてくださる方なのです。種もまいてみなければ、なにもはじまりません。種を蒔いてすぐに花を咲かす花はありません。時間がかかるのです。神様は私たちに、待つという恵みを与えてくださいました。人は最初から上手にできるのではありません。私たちは、それぞれ神さまに与えられた、それぞれ異なるペースで成長してゆくと思います。洗礼者ヨハネが自分の使命をわきまえ、自分のなすことをしたように、神さまに与えられた使命を感謝して受け止めればよいのです。

 

2聖霊のバプテスマとは

8節で、イエス様は聖霊で洗礼をお授けになる、とヨハネは言っています。ヨハネは水に

よって罪を清め、人々を神に立ち返らせるが、イエス様は聖霊の恵みによって清める、ということでしょう。

 イエス様が洗礼をうけるとき、鳩のような姿で下りて「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という声が聞こえたと言われます。天から聞こえた、その言葉こそが、聖霊の恵みだと思います。聖霊がくだるとき、「私は神に愛されている。私は神の子ども」と、心の底から確信できるのです。洗礼は一度きりですが、聖霊の恵みは一度きりでは私たちといつも共にいます。「私は一人でやっていますから、聖霊はいりません」と、拒否しなくてよいと思います。一人で頑張る必要はありません。

それは、イエス様の生涯でもみられました。イエス様は神であり完璧な存在でしたが、弟子たちを必要としました。もしかすると、やり方が違って、福音宣教の効率が悪くなったり、弟子たちは人間ですので失敗してしまうことがあったかもしれません。福音書を読んでみますと、弟子たちはイエス様の教えを理解しないで、叱られる場面がたびたびでてきます。子供が大人につれられてきたときに、弟子たちが妨害しようとしたとき、イエス様は憤られました。弟子たちは、誰が自分たちのなかで偉いのか、この世の地位や名誉にしがみついていました。せっかちな弟子たちを教育する時間があったら、神の子の力で福音宣教をすすめてしまったほうが、よっぽどよかったかもしれません。しかしイエス様は、一人で福音宣教する道を選びませんでした。たとえ裏切るであろう弟子たちをも愛し、「私は共にいる。私はあなたを決して見捨てない」と呼びかけているのです。

イエス様は、12弟子だけではなく、私たちにも、「あなたは必要な存在」と呼びかけてくださっているのです。聖霊の恵みによって、私たちは一人のみの力で、重たい荷物を背負う必要がないことは、イエス様の生涯を通してみえてきます

イエス様の母マリアも、天使の言葉を聞いたあと、「マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。」と、聖書に書いてあります。まだ、14歳くらいの女性です。旅には危険もあったことでしょう。しかし、神様は辛いときに、支えあう仲間を与えてくださるのです。マリアは、3ヶ月ほどエリサベトのところに滞在しました。その3か月は、神さまの与えられた大切な時期であったと思います。良い子になりたくても、努力してもがいても、自分の弱さに出会います。そんな私たちを含めて、「あなたはあなたで良かった」と、イエス様は私たちを喜んでくださるのです。肩の力を抜き、神さまに作られた自分で歩きだしてよいのです。

 

3、罪の赦し

マルコによる福音書15節では、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」とありますから、多くの人が、洗礼者ヨハネに、慰めと安心を感じていたのだと思います。人々は罪の告白をしていましたから、誰にもいえない自分の犯した罪を、ヨハネにだけは言えたくらい、ヨハネは信頼されていたことが読み取れます。

福音は、イエス様を通して示されましたが、準備のために神様は、様々な方を必要とし、働かれたことが分かります。一人一人には、それぞれ働きは違いますが、一人一人神さまの大切な存在なのです。寝たきりになって、祈ることしかできなくなったとしても、誰とも比較できないくらい、大切な存在なのです。

 

荒れ野の中なので、立派な施設もなかったでしょう。あるのは、厳しい自然だけだったと思います。しかし、神様はどんな場所であっても、今置かれている場所を、恵みあふれる場所に変えてくださいます。クリスマスの話ででてくる、羊飼いたちは、イエス様に差し出すプレゼントさえなかったではないかとおもいます。手ぶらのままだったことだと思います。しかし神さまは、羊飼いの礼拝を喜んでくださったと思います。手ぶらでしたので、もしかして、乳飲み子のイエス様を抱くことができたかもしれません。手にいっぱい荷物を抱えていれば、イエス様を抱くことすらできません。神さまは、小さな存在であったとしても、羊飼いの礼拝を喜んでくださったように、私たちを喜んでおられます。「あなたに会えてよかった。生まれてきてくれて、本当にありがとう」と喜んでくださる方です。その愛を、まっすぐに受け止めることができますように、お祈りしたいと思います。