マルコによる福音書


マルコ41-20

 

イエス様は、神さまの言葉という種を私たちにまきました。どういう人が、根を深く下して、豊かに実を結ぶことができるでしょうか。

 それは、み言葉をまっすぐに受け入れる人です。聖書の言葉を、そのまま信じられる人です。例えば、「私の目にはあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」という聖書の言葉を、そのまま受け止められる人です。幼子のように、疑わずに信じて良いのです。

 道にまかれた種は、「神さまの言葉なんて嘘だ! そんなのは信じられない」と疑いを持ち、サタンが来て、その種をとってしまいます。

 神さまは、私たちの石や茨を取り去ってくださいます。いつも、心を謙虚にして柔らかくして、神さまのみ言葉を受けとめられる良い土地にしておきましょう。

 

黙想

・蒔かれる種が、神さまの愛だとすれば、深く根をはるにはどうしたらよいでしょうか。

・自分の心と対話して、根を深く下してゆくプロセスには、石にぶつかったり、道端にぶつかったり、茨の中にまかれたりして、それらを取り去ってゆくことがあるでしょう。

・道端にまかれるとは、「神さまの言葉は本気で信じられない」と思い、「自分は愛されているなんて嘘だ」と、サタンが来て、そっちのほうに誘惑されてしまうことです。

・石にぶつかるとは、心の頑なさでしょう。他人を赦し、「相手にも言い分がある。相手を赦そう」と思ったとき、心の石が砕かれていきます。

・茨とは、見栄や虚栄心でしょう。「あれも欲しい、これも欲しい」と茨が心に支配されていたならば、み言葉の根は、広がることができません。小さなことで幸せを感じ、何が人生で大切なのかをチェックするときに、余計な茨を取り去ることができます。

 

参考リンク

片柳弘史神父のブログ、バイブル・エッセイを参照しました。

https://hiroshisj.hatenablog.com/entry/2020/07/11/220623

 

 

バイブルメッセージ

1、神さまの言葉という種

蒔かれる種が、神さまの愛、イエスの言葉であるとすれば、それが土地に深く根を張るとはどういうことでしょうか。それは、神さまの言葉を一番心の奥底で受け止め、根をはるということであると思います。しかし、根をはるプロセスの中で、私たちの暮らしで様々なものが邪魔をします。イエスは、私たちが神さまの愛、イエスの言葉という種が根をはり、豊かな実を結ぶために、たとえを用いて教えられています。私たちの心を柔らかくして、神の言葉を素直にうけとめるときに、私たちは、福音の喜びに満たされるのです。


2、道端に蒔かれた種

イエスは、ある種は道端に蒔かれ、空の鳥が食べてしまった、といいます。イエスは4章15節でたとえを説明していますが、「すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれたみ言葉を奪い去る」と、いいます。サタンは、神さまの御心と反対のことを、人に教えます。私たちの生活でもしらないうちに、サタンは入り込んできて、私たちの心に住み着き、神さまのみ言葉が深く根を張るのを邪魔してしまのです。

サタンの策略の一つとして、人の価値を疑がわせるのがあります。サタンは、「あなたはあれもできないし、これも駄目だ」と自信を失なわせてゆくのです。そのため、つい他人と比較して、自分の価値を決めてしまうのです。しかし、聖書をひらき、イエスの言葉にまっすぐ目をむけるときに、「私たちは、神さまに愛されている、かけがえのない大切な神さまの子ども。小さくても弱くても、生きているだけで限りなく尊い存在」であることがわかってきます。

そして、冷静になって、いま自分が考えているのは、はたして本当に神さまの御心なのだろうか、とチェックしてみていいのです。冷静になるなかで、人はゆっくり自分の存在のことや、これからのことを、焦らずゆっくり自分のペースで取り戻すことができるのです。神さまに作られた私たちであれば、比較をやめて、神様に作られた自分が自分であることに、価値があるとがみえてくるのです。「人がどう思おうと、自分は精一杯生きている」と確信してよいのです。「神様はこんな自分でも愛してくださる。神様に与えられた使命を全力に生きている。」と、神様のために生きるとき、周りに流されず、本当の自信が生まれるのです。周りがどう変化しようとも、自分は自分であることに自信がある人は、周りに流されることはありません。神さまが与えてくださった道を、自分のペースで歩んでゆけばよいのです。

なんでも焦って結果をだそうとするときがあります。「早く結果が知りたい」と思い、待てないときがあります。しかし、種を蒔いてすぐに花を咲かす花はありません。時間がかかるのです。神様は私たちに、待つという恵みを与えてくださいました。人も最初から上手にできる人はいません。失敗や悲しみを経験し、少しずつ上手になってゆくのです。完璧な人はいません。私たちは、それぞれ異なるペースで成長してゆくのです。


3、石

 イエスは、石だらけで土の少ないところに落ちた種とは、心の頑なさであるかもしれません。イエスに、「お互いの罪を赦し合いなさい」と教えられても、他人は赦せても、自分自身を赦せない人も多いのではないでしょうか。「今の自分じゃ駄目だ。もっと優れていなければ価値がない」と思い込んでしまいます。しかし、人間はどんなにがんばっても、弱さを抱えています。人にできるのは、自分の力のみで頑張ろうとするのではなく、神様の助けを願うことです。

「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6:34)という言葉が、聖書にあります。私たちは、未来を心配してしまいます。それは、自分の思い通りになってほしいという、プライドにあるのです。自分の思い通りにならなくても、「人生の道は神様が準備してくださるから、神様に与えられた賜物を用いて、自分らしく精一杯生きるだけだ」と信じられたなら、身を軽くして生きられるのです。

イエスは、石だらけで土の少ないところに落ちた種は、根を深くはることはできない、というのです。神さまの御心ではなく、自分のプライドや固定観念が石となって邪魔をして、根をはるのを邪魔してしまうのです。その固定観念の一つに、キリスト者とはどういう存在であるのでしょうか。イエスがもし、私は正しい人を招くためにきて、罪びとを裁くためにきた、といっていたらどうでしょうか。もしそうであれば、イエスは罪びとのために来たのではない、とわかります。しかしイエスは、そうはいっていません。イエスははっきり、マルコ2章17節で「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くために来た」と言われたのです。もちろん、正しい人を目指し、キリスト者らしい生活をおくることは大切なことかもしれません。しかし、どんなに正しく、神さまの教えを守っていたとしても、憐みの心、赦しの心、愛の心を忘れてしまったならば、イエスと敵対したファリサイ派という、グループになってしまうのです。ファリサイ派の人たちは、とてもまじめで、生活の隅々まで神さまの教えを守っていました。

宗教的に正しい人と、多くのユダヤ人からみられていたのです。しかし、イエスは正しさを求めるよりも、神の前に謙遜で、真実な悔い改めを求めていました。そして、たとえ罪びとと呼ばれる人であったとしても、すべての人は神さまに愛されている、かけがえのない大切な神の子どもである、とよびかけたのです。おそらく、当時社会生活から隔離されていた罪びとと呼ばれている人たちは、喜んだのではないでしょうか。「私も神さまに愛されている子供だ」という誇りを取り戻したのではないでしょうか。ファリサイ派の人たちは、自分の固定観念やプライドによって、心を頑なにしていました。まさに、石だらけの土地に蒔かれたのに、似ているのです。自分のプライドを一つ一つチェックして、背伸びして自分を大きく他人に見せようとしていたら、無理をするのをやめ、神さまに作られた等身大の自分に戻ってよいのです。石を一つ一つ取り除く中で、心を柔らかくして、希望の芽がはえてくるのです。ときどき、自分の心をチェックして、背負い過ぎていた重荷をおろしてみましょう。


4、茨

最後にイエスは、「ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので」とイエスは言います。イエスは、「この人たちは、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない」といいます。

 人は、「あれも手に入れなければ、これも手にいれなければ幸せになれない」と思い込んでしまうことがあります。何かを持っていないと不安になるのです。しかし、イエスはマルコによる福音書10章14節で「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」といわれたのです。たとえ、何ももっていない子供たちを、イエスはそのままの姿で、神さまに作られた命を愛し、かけがえのない大切な存在として受け止めてくださったのです。私たちは、たとえ小さく弱くても、それでもかけがえのない大切な存在として、神さまは受け止めてくださるのです。神さまの愛に気づくときに、茨は少しずつ取り去られていきます。この世の思い煩いや富の誘惑に心がすっかり支配されていた心が、柔らかく耕かされ、神さまの愛とイエスの言葉が、ますます心に根をはり、豊かな実を結ぶことができるのです。

 「あれもできなければ、これができなければならない」と心配する必要はなさそうです。神さまは、小さき子供を愛されました。他人の助けを借りながらしか生きられない子供たちは、誰が偉いのか競うこともなく、神さまに作られた日々を楽しみ、喜んでいるような気がします。私たちも、「あれもしなければ、これもしなければ実を結べない」と心配する必要はありません。小さき子供を神さまは愛されたように、神さまに愛されるために、特別なことをする必要はないのです。必要なものだけを持ち、不要なものは持たなくてよいのです。神さまの使命を果たすためには、そんなにたくさんのものは必要ないのです。「あれもなければ、これもなければ」と心配する必要はないのです。神さまが、私たちに必要なものを知り、すべてを備えてくださるからです。