マルコによる福音書


聖書の言葉

3イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。 4「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」 5イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。 6わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。 7戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。 8民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。 9あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。 10しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。 11引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。 12兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。 13また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マルコ13・3-13)

 

バイブル・メッセージ

イエスは、マルコによる福音書13章11節で「福音はあらゆる民に宣べ伝えられねばならない」と言われました。福音とは、良き知らせです。英語では、Good Newsです。イエスは、自分の来た目的を、マルコによる福音書2章17節で次のように言っています。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。

罪びとは、おそらく宗教的な律法を上手に守られない方や、職業や病気などによって罪びとというレッテルを張られていたのでしょう。しかし、イエスは、一人一人に「あなたはかけがえのない大切な存在。あなたは、神の子」と伝えたのです。何もできなかったとしても、失敗ばかりだったとしても、一人一人が神の前で、愛されている神の子どもであるのです。貧しさや差別の中で苦しんでいる人たちは、イエスによって心揺り動かされ、希望を取り戻しました。神さまによって造られたものでありながら、自分には価値がないと思い込まされている人たちに、「あなたは神さまに愛されている、かけがえのない命」と知らせること。それこそ、キリスト者の使命の一つであり、イエスの願いであると思うのです。

 

 さて、11節で「何を言おうかと取り越し苦労をしてならない。そのときには、教えられることを話せばよい」とイエスはいいます。迫害されて、絶対絶命のピンチのときに、神さまは聖霊をおくってくださり助けてくださるのです。

 私たちは「なんでも自分でしなさい、自分の力でやっていきなさい」という傲慢から解放されるのです。福音宣教で大切なのは、自分の力ではありません。大切なのは、自分で「あれもしなければならない、これもしなければならない」と焦ることではありません。ただ、聖霊にまかせて、どうにもならないときは、神さまに委ねればよいのです。「こうであるべき」という枠から自由になってよいのです。様々な理想に縛られて、理想的な生き方ができないときがあります。しかし、神さまは理想の私たちではなく、現実の私たちを愛してくださっているからです。自分の力を捨てることは、難しい時代であるかもしれません。自分で自立しないとは教えられますが、神さまに委ねなさいとは、学校で教えてくれません。そんな中で、自分がしっかりしていなければ、神さまに用いられないとまで、思い込んでしまうのです。

この世界をみるとき、神さまは、野の花を生かし、空の鳥をいかし、一人一人の命を愛しておられることがわかります。野の花一つとってみても、コスモスにはコスモスの美しさがあるように、それぞれ異なります。夏に元気に咲いていたひまわりと、コスモスとでは、形も色も違います。マリーゴールドも、保育園できれいにさきほこっていますが、じっくり見つめると、少しずつ色彩が違うことに気づきます。神さまは花それぞれに、それぞれの美しさを与えられました。私たち一人一人の働きは違うかもしれません。生活でしていることも違うかもしれません。違うからと言って、「私のほうが神さまのために役に立っている」と競争する必要はないのです。幼子のように、競争する必要はなく、ただ神さまの愛を疑うのではなく、信じてよいのです。自分の力を捨て、神さまに委ねてよいのです。あとは神さまがしっかり私たちを背負ってくださり、私たちの道を準備してくださるのです。神さまは、私たちの一歩一歩の道を備えてくださいます。

 

13節で「最後まで耐え忍ぶものは救われる」とイエスは言いました。耐え忍ぶとは、希望をもって生きる、ということでしょう。希望とは、神は決して私たちを見捨てることはない、という確信です。大切なのは、神の愛に心を開いている、ということでしょう。神は何があっても、「私を愛している」。その愛が、あらゆる困難を乗り越える力を与えてくれます。エレミヤ書では「私はあなたを胎内に形づくる前から知っていた。」と、神はエレミヤに言われました。その言葉は、私たちにも言われています。神さまは、私たちを生まれる前から知っており、一人一人の誕生を心待ちにしていました。そして、私たちの命を、かぎりなく尊いものとして作られました。障害があるなしにかかわらず、一人一人を最高傑作な存在として作られました。「私は生まれる前から神さまに愛されている。そして今も愛されている」と確信をもってよいのです。神の子として生きるとは、弱さや欠点を抱えた自分に絶望しないことです。そのような自分を愛してくださる神さまに感謝し、神さまの愛にただ心を開いているだけでよいのです。したくてもできないことがあります。そのときは、私たちは、力をあわせて助けあい、わかちあえばよいのです。そうすると、可能性がずっと広がります。できることが増えていきます。一人きりで、はじめる必要はないのです。できないことはできないと認め、できないことを認める勇気が必要なのです。一人でできないことも、力をあわせれば、できることがあるかもしれません。

 イエスは、福音を告げしらせました。それは、良き知らせです。最近子供たちの自殺が増えていると、インターネットのニュースで知りました。いじめによって、SNSによって、命を傷つけあうことが増えています。相談しても、大人も先生も、生活や仕事でクタクタになって、話し合う余裕がないのかもしれません。一人一人の心の助けに、耳を傾ける余裕が少なくなっているかもしれません。立ち止まって、ゆっくり話を聞いてくれる仲間を求めているのです。神さまは一人一人に、「あなたはかけがえのない大切な存在。あなたとあえて私は嬉しい。あなたが生まれてきてよかった」と、私たちの命を喜んでくださいます。「あなたが生まれてきて本当に良かった」と、神さまから作られた命を喜びあうために、祈りをあわせてゆきたいと思います。