ヨハネによる福音書


聖書の言葉

1「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 2わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 3わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。 4わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 6わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。 7あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。 8あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。 9父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 10わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

 

11これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。 12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 17互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハネ15・1-17)

 

バイブルメッセージ

旧約聖書の創世記には、「ノアは農夫となり、ぶどう畑を作った。 あるとき、ノアはぶどう酒を飲んで酔い」と創世記9章に記されています。


洪水後、最初に作られたものが、ぶどう畑でした。イスラエルにおいて、ぶどう酒は長期保存できるものとして大切にされました。また、ぶどう園をイスラエルの民にたとえるのは、旧約聖書のイザヤ書5章や、詩編80編にも印されており、ぶどうはイスラエルの民たちにとって大切な果物でした。


ヨハネ15章は、イエスの告別説教とよばれる箇所にあります。13章で、イエス様は最後の晩餐で、弟子たちの足を洗いました。13章30節で、「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。」とあり、それからイエスは弟子たちに、17章26節まで語りはじめます。今日の聖書箇所は、その中に含まれています。


イエス様はまことのぶどうの木、そして、あなたがたは枝である。わたしにつながっていなさい、とイエス様はいいます。ヨハネの時代は、さまざまな情報が溢れていたのでしょう。第2ヨハネ1章9節に「だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません」と書いています。また、第一ヨハネ手紙2章18節には、「反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。 彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。」と書いてあります。イエスさまと違った教えを語る指導者やグループがいたのです。そのため、惑わされないで、まことに真実なイエス様にこそつながりなさい、とヨハネは語っています。


つながるとはヨハネ15章9節で、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」とありますが、「とどまる」という動詞と同じギリシャ語が使われています。先週の礼拝で、第1ヨハネ4章16節の「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」というみ言葉が与えられましたが、このとどまるという箇所も同じギリシャ語が使われています。愛にとどまるとは、何か必死になって新しい教えをつけたすのではないと思います。「イエスさまは、十字架で命を差し出してまで私を愛してくださっている」という、イエス様の愛を信頼することだと思います。


枝は自分で栄養を作り出すことはできませせん。木は根から栄養をすいあげ、枝全体にも栄養がまわってきます。自分の力だけで実をならせよう、と思っても枯れてしまいます人間の才能やスキルに、どうしても頼ってしまいがちですが、イエスさまは「私を離れては、なにもできない」というのです。日々、聖書からきこえてくる神さまの愛を受け取り、「わたしは神さまに愛されている」と確信し、神様の支えによってこそ、人は神様の愛にとどまって生活できるのではないでしょうか。


3節に、「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」とイエスはいいます。ユダヤ人によって、様々な掟をまもることによって、清いものとみとめられたのです。しかしイエス様の言葉によって、「あなたは清い存在だ」と呼び掛けてくださるのです。

ヨハネ13章では、イエス様は弟子たちの足を洗いました。今度は言葉によって「あなたがたは清い」といわれ、弟子たちはどんなに嬉しかったでしょう。

マタイによる福音書8章では、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と頼んでいます。

レビ記13章45節~46節には、「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」と書いてあります。自分を汚れている、と言わなければならなかったことは、どんなに辛いことだったでしょう。

しかし、イエス様は、重い皮膚病を背負った方に、「よろしい。清くなれ」と言われました。イエス様にとっては、当時の宗教で清くないとされていた方たちも、「あなたは清い存在だ」と受け入れました。「自分がしっかりしてなきゃ、実を結ばない枝として剪定される」とビクビクするのではないと思います。もしそうであれば、律法学者たちがしていたように、罪人と正しい人を区別する世界に戻ってしまうでしょう。イエスは、当時の律法にそっては、違反者でした。当たり前だとされていた常識を破ったからです。しかし、その常識というのは、人間の言い伝えであったりするのです。イエスは、重い皮膚病の人に清い、と宣言しました。神様の前であなたは受け入れられている存在、と宣言したのです。


1ペトロ2章1節で、いろいろな偽善を捨てなさいとあります。「偽善」とは、ギリシャ語では、役者という意味からきています。自分を偽ったり自分を飾って、役者を演じることです。しかし、神様の前で背伸びして、自分を大きくみせようとしなくてよいのです。イエスさまは、子どもたちこそ神の国に近いと言われました。自分を大きくしようと背伸びしない子どもたちを、命そのものを神さまは愛してくださるのです。ただ、疑わずに信じる幼子のように、十字架で命を差し出してまで私たちを愛されたイエス様のあいを信じ、信頼すること。神様の愛に心を開き、「私は神さまに愛されている」と愛にとどまるとき、私たちは神さまから栄養が与えられ、豊かな実を結ぶことができるのです。


神様は「あれもこれも、1人で頑張りなさい」とは言われませんでした。1人で実をつけすぎたら、実が重すぎておれてしまうかもしれません。どんなに豊かな実を結んだとしても、枝にはたえられる限界があります。自分にあった実をつければ、神様は喜んでくださるのです。

8節に「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」とあります。ユダヤ人の世界では、学校にいったり、指導してくれる先生に學ぶことによって弟子になれました。しかし、福音書では、イエス様の呼びかけによって、弟子とされました。弟子の中には、ユダヤ教の枠から外されていた取税人も含まれていました。


イエス様は、「私の愛にとどまりなさい」といいます。それは、「あなたは神さまに愛された大切な存在だ」という呼びかけです。そして、神さまに愛されたものとして、互いに愛し合いなさい、と教えられます。私たちの周りに、もしかして「自分はつまらない存在だ」と思いこんでいる方がいるかもしれません。イエス様は、あなたが弟子となり、「あなたは神さまに愛されている大切な存在ですよ」と伝えることを、弟子たちに呼びかけているのです。神様の子どもとして互いに愛し合い、神様に与えられた使命を果たしてゆけるように祈りましょう。