2021年10月


神のものは神に

それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。 そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。 ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」 イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。 税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、 イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。 彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」 22彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った

マタイ22・15-22 新共同訳

 

1、 神のもとは神に返すとは

神のものとは、なんでしょうか。20節の「だれの肖像と銘か」と書かれています。皇帝

のものには、皇帝の肖像が刻まれていました。それでは、神のものには何が刻まれているかということです。創世記126節には「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と書いてあります。神の似姿として造られ、神の刻印を押された人間は、全て神に返されるべきだ、とイエスは言っておられるのです。しかし、私たちは時に、「私の人生は私のものだ」と横領してしまうのです。そして、人間の価値さえも自分で判断してしまうことがあります。一人一人は、神さまに大切に創られているのにもかかわらず、「自分には価値がない。自分はダメな人間である」と決めつけてしまうのです。一番人が苦しいのは、自分のこだわりや考え方を捨てられない時です。「自分には価値がない」と言っているのは、実は神さまの声ではなく、自分自身が勝手に作り上げた声だったりするのです。

神さまは「あなたはかけがえのない大切な存在。あなたには、生きているだけで価値がある」と呼びかけておられます。神さまは、私たち一人一人をそのままの姿で愛してくださるのです。もしわが子が、「私は自分が嫌い」といっていたらどうでしょうか。おそらく、親はその子を抱きしめて繰り返し、「あなたはかけがえのない大切な存在」と慰めてくださるでしょう。私たちは、神のものであることを思い出してよいのです。神さまが創ったものに、ダメなものはありません。一人一人は神さまに造られた最高傑作です。神さまが手抜きして人を創ることはありませんでした。一人一人が、神さまが「極めて良かった存在」としてこの世に産まれてきました。神さまという最高の芸術家によって創られたのですから、安心して「私は私で良いんだ。私は愛されている。私の人生には意味がある」と思ってよいのです。

 

2、 神の国

神のもとに返しなさいというのは、自分中心ではなく、神さまの御心に従って生活することです。では、神さまの御心とは何でしょう。イエスは、マタイ1125節~26節で「天地である主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした」と言われました。イエスは、自分がまだ何も知らない事を知り、謙遜な心で神に耳を傾ける人たち、すなわち「幼子のような者」こそ、御心に適う者である、と言っておられるのです。

 知恵ある者は、つい自分のこれまでの経験に頼ってしまいます。そして、「自分はこう思うから、自分は絶対に正しい」と思ってしまうのです。自分の思い通りにならないと苛立ち、焦り、不安になります。律法主義たちは、先祖たちの言い伝えを大切にし、律法を守っていたのでしょう。変化に逆らう事に抵抗し、自分たちの安定した考え方を土台としていました。そして、律法を守られない弱い人を裁き、罪びとというレッテルを張り付けていました。知恵ある者は、自分に対して自信があるので、自分の無力さを知りません。ですから、自分の力のみでやっていこうとします。

それに対して、幼子のような者とは、変わってゆく現実を、柔軟に受け止めます。「神さま、あなたは何をお望みなのですか」と問い、自分の考えではなく、神さまの御心を問おうとしています。どんな変化が起こっても、神さまは一番よい道を準備してくださると信じていますから、将来への恐れや負担に押しつぶされることはありません。

 幼子のような者は祈りの中で、自分は「あれもしなければならない、これもしなければならない」と、背負いすぎていたことに気づかされます。そして、荷物を軽くし、本当に背負うべき荷物だけを両肩でしっかり背負い、再び歩きだすことができます。重たすぎた時は、神さまのところにきてゆっくり休み、荷物を軽くすればよいのです。時々、自分の背負っている荷物をチェックする必要があるかもしれません。神さまは、私たちが無理をして生きることは、望まれていないからです。私たちが、助け合い、分かち合い、力をあわせることを望まれているからです。体が動けない時は、無理をしないで、助けてもらえばよいのです。漠然とした不安があるとき、どんどん大きく成長し、心をむしばんでいきます。そのときは、ゆっくり治療し、休んでよいのです。私たちは余計な荷物を捨てるとき、本当に大切なものはわずかであることに、気づかされます。自分のちょうどいい荷物を背負って、人は歩いていけばよいのです。

 

3、自分に戻る

 神さまにお返しするとは、自分本来の自分に戻ることです。神さまは、私たち一人一人に個性や賜物を与えて下さいました。人間の間に優れているとか、劣っているかは存在しないのです。ただ一人一人、与えられた使命や役割が違うからです。人と同じことができないからといって、自分を責める必要はないのです。神さまに与えられた自分を、精いっぱい生きることで十分なのです。自分以上の自分を演じる必要はありません。ありのままの輝きを信じてよいのです。それが、神さまが与えてくださった、命の光だからです。ありのままの自分の姿の中に、イエスは住んでくださり、私たちを暖かく照らしてくださるのです。どんなに弱く、汚れていようとも、すべての命は限りなく尊いのです。神さまに造られた、命の輝きを、まっすぐに信じて良いのです。

 イエスは、隣人を自分のように愛しなさい、と言われました。私たちは、一番近くにいる自分と敵対する必要はありません。一番近くにいる自分にネガティブでいると、その苛立ちは、周りに向かってゆきます。隣人を愛するためには、そのためには、まずは自分が神さまの愛に気づくことが必要なのです。わがままで、欠点だらけの私たちを神さまは愛してくださっているからです。それでも、自分を受け入れられない時があります。自分で自分を受け入れることは、なかなか難しい時があります。しかし、自分自身を受け入れられない時も、イエスは私たちを受けとめてくださるのです。受け止めきれない自分すらも、神さまは愛してくださるのです。上手にできなくても、大丈夫なのです。

 

4、野の花空の鳥

私は、野に咲く花を見るのが、最近好きになりました。弱くて小さいけれど、それでも精いっぱい咲いている野の花や、懸命に生きている鳥たちをみるときに、心が洗われるのを感じます。考え事をしていたり、心が乱れている時に野の花をみると、「くよくよしていなくても大丈夫だよ」と、野の花から元気をもらうときがあります。野の花や鳥たちは、「先の事を考えて、あれこれ心配しない」ようにみえます。今だけを生きることが精一杯で、全力で生きているように感じます。野の花は、じっくり見ていると、一輪ずつそれぞれ色が違うことに気が付きます。一輪の花の中にさえ、神さまは美しく装ってくださり神さまの神秘がみえるような感じがします。世界の果てまで冒険しなくても、身近なところに、世界の秘密が隠されているような感じがします。すべての命は神さまの愛から生まれて来るかけがえのない存在です。私たち人間も同じです。神さまは、私たち一人一人をどれほど愛をこめて創られたでしょう。私たちは、自分の本当の美しさに気づいていないかもしれません。命は限りなく美しいのです。その命を、自分で自分を追いつめる必要はありません。イエスは、私たちが誰一人自分で自分を追いつめないように罪悪感で苦しまないように、自分の命を差し出してまで十字架のあがないによって私たちを赦してくださいました。その赦しをまっすぐ信じて、この時を過ごしてゆけますように。