2021年8月


逃げてもだいじょうぶだよ

「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。 人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。 また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。 引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。 実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。 兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。

マタイ10・16-23 新共同訳

 

1、 弱い羊

羊は無力な存在です。しかしイエスは私たちを羊にたとえられました。羊のようであ

れ、ということです。もっと強い動物にたとえてくれたらよかったのに、と思うかもしれません。しかし、イエスはどうしても私たちを羊にたとえました。

考えてみますと、現実に人間は、羊のように弱さや欠点を抱えています。「自分は弱い人間なんだ」とあきらめてしまうことがあります。しかし、自分の弱さや限界を知っている人が、本当の強さを持っている人であることを、イエスは知っていたのではないでしょう。

弱い人は、神さまの前で、思い上がることはありません。「神さまどうしたらいいですか」と絶えず祈りながら、歩むことができます。「自分はいつも完璧なんだ」と思うことはないので、成長することもできます。プライドや見栄もないので、他人に助けを求めることができます。実は、弱いと思える人こそが、他人と助け合い、謙遜な心で自由に生きていけるのです。自分は弱い人間こそが、本当は強い人のです。

 

2、 賢さと素直さ

蛇のような賢さとは、何が神の御心かそうでないのか、聞き分けるということです。ヨ

ハネ福音書1027節に「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」とイエスは言っています。色々な声があります。それが、神さまの声なのか、それとも自分の声なのか、他人の声なのか。今でも、耳をすますと、色々な声が聞こえてきます。鳥のさえずり、風の音。色々な音がきこえてきます。しかしイエスは、私の羊はわたしの声を聞き分ける、というのです。

神さまの声の特徴は、なんといっても愛に満ちている、ということです。「あなたはかけがえのない大切な存在。あなたは神さまの子ども」。イエスは、今も繰り返し私たちに愛の言葉をつげています。しかし、時には自分をだます声が聞こえてきます。「あなたは、もっと成長しなければいけない。もっと優れていなければ、神さまの子どもになれない」。そう言って騙してくるのです。もしかすると悪魔の声だったりするかもしれません。暮らしていますと、色々な声が聞こえてきます。それらの声を、賢さをもって、聞き分けていきましょう、ということです。

鳩のような素直さとは、神さまの前で純粋でまっすぐ、ということです。偽らなくてよい、ということです。人は、実際の自分以上のことを演じようとすると、自分本来の輝きを失っていくのです。私たちの命が一番輝くのは、神さまに愛された自分をありのままの姿で受け取め、神さまに与えられたもので精いっぱい生きようとするときです。神さまの愛を受けて、世の光として輝くのです。自分の光で輝こうとするのをやめ、自分のありのままの姿をイエスは愛し、ゆるしてくださると知ったときに、私たちは神の前で素直な自分になれるのです。無理にして、他人になる必要はなく、「私は私でよいんだ。私は愛されているんだ」と確信してよいのです。

 

3、心配しなくてよい

 19節で「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる」とイエスはいいます。あれもこれもと心配しなくてよいのは聖霊が語ってくださるからだ、というのです。そのときに、「わたしはあれもできない。これもできない」と心配しなくてよいのです。

神さまは、私たち一人一人に、必ずかけがえのないよさを与えて下さっています。神さまはこんなにも私たちを愛してくださっているのに、自分で自分を責め続けていたり、嫌いになるのはもったいないことです。

 心配しなくていいということは、「天のお父さんにすべて任せなさい。あなたたちは、安心していなさい」と、言ってくださっているのです。それはなぜでしょう。今日は読みませんでしたが、1031節につながっていると思います「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもまさっている」。イエスが言いたかったのは、「空を飛ぶ鳥たちも神様は豊かに養ってくださっている。ましてや、あなたがた一人一人は、なおさら価値があり、神さまの目にとめられているのか」ということです。

人は、悪口や批判をあびることはあるかもしれません。マタイの福音書が書かれた時代もおそらく、キリスト者というだけで迫害されていたのでしょう。そんなときに、他人の言葉で一喜一憂していては、精神的にも身体的にも、もちません。精神的に支えていたものは、神さまの愛だったと思うのです。「人から何をいわても、いくら迫害されても、私は神から愛されている」。その確信こそが、神の子どもとして希望を持ち続け、耐え忍ぶことができたのです。全ての人に愛されることはできません。しかしたった一人でも、自分を深く愛してくれる人がいる。その人がいるかぎり、私たちは生きてゆけるのです。

 

4、 逃げていきなさい

23節で「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」とイエスはいいま

す。立ち向かうだけではなく、逃げて行きなさいと、イエスは言われました。

他の町へ逃げる時は、「これから先どうなるんだろう」そんな不安が沸き起こってきたと思います。持ち物もなく、将来のことを考えるのと不安だらけです。ただし、そんなときにこそ、何かができなくなった時こそ、神により頼み、自分の思いではなく神の思いを行うチャンスの時です。何かができなくなったからこそ、神に委ねる生き方ができるのです。そう考えますと、無力であることを恐れたり、恥じたりする必要はないというのがわかってきます。無力だからこそ、神に祈り、助け合うことができるからです。無力な時こそ、私たちは自分の予想を遥かに超えて成長することができるのです。

おそらく、逃げた先の町にもキリスト者はいたのでしょう。そうやって、初期キリスト教会は、助け合って生活し、イエスの福音を宣べ伝えていったのでしょう。「どうして、あなたは逃げてきたんだ。弱い人間だ。あなたは帰っていきなさい」と追い出す人は、いなかったのです。むしろ、なにひとつ持たない相手に向かって、「怪我などありませんか。ゆっくり休んでいってくださいね」と、キリスト者たちは励まし合い、暖かく迎えたのでしょう。迫害した人たちは、逃げて行くキリスト者たちを見て、あざ笑っていたかもしれません。しかし、逃げて行くキリスト者たちは「人からどう思われようと、言われようと関係ない。神さまから愛されているので、それだけで十分だ。」と思っていたでしょう。

 

5、 羊のように

羊は無力です。しかし、神さまはその羊を愛してくださるのです。オオカミは怖いかもしれません。しかし、たとえ恐れや不安があったとしても、神様は私たちの全てを守り、導き、養ってくださるのです。

私たちは、蛇のように賢くこの社会の中で生きれば良いのです。自分を大きくみせようと背伸びする必要もなく、自信をもって自然体の自分で、主の弟子として生きればよいのです。

社会の中では、強くあれ、たくましくあれ、という言葉が響きます。そして、弱い人は、排除されていきます。しかし、教会はそのような価値観にたっていないのです。教会は、どんな人もかけがえのない大切な存在と受け止める場所です。逃げてきた人を暖かく迎えいれる場所です。自分の気持ちを、ありのままに感じられる場所です。神さまには、不安や恐れ、そして喜びを、感じるままに告白できる場所です。喜ぶ人とともに喜び、泣く人と共に泣くところです。

「自分は赦されないんだ」と、この世の価値観と同じ声のほうに進んでしまっている人に、「あなたは、イエスの十字架によって赦される」と宣言する場所です。イエスは言っておられます。「わたしは十字架のあがないによって、あなたは赦される」。それが、イエスの声なのです。

 

蛇のように賢く、鳩のように素直になり、ただ神さまの声に耳を傾けてよいのです。そしてまっすぐに聞こえてくる、「あなたは赦されている、神さまのかけがえのない大切な子供」とよびかけられている声に耳をすまし、喜んでイエスに従ってゆくことができますように。