2021年9月


ゆるし

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。

マタイ18・ 21-22 新共同訳

 

1、 ゆるしてくださる

イエスは、「どこまでも赦しなさい」とペトロに言われました。この言葉は、今を生きて

いる私たちにも、まったく同じことをイエスはいうでしょう。どこまでも相手の罪を赦しなさいと。では、どういう人が、相手の過ちを赦すことができるのでしょう。それは、自分自身がまずは「神さまは私の罪を赦してくださった」と信じている人です。他人はゆるせても、自分の弱さや罪深さを赦し、それを受け入れられる人もいるかもしれません。「いまの私では駄目だ」と、自分を責め、自分で自分を苦しめてしまうのです。それはきっと、「人は優れていなければ価値がない」という誤解があるからでしょう。私たちの社会は、優秀であること、自立していること、強いことであることを求めます。その中で、「他人に助けを求めること」「他人に弱さをみせられること」が、どこか恥ずかしい行為であると思われてしまいがちです。しかし、他人に助けを求めて生きることは、とても大切なことです。一人の力で生きてゆける人は、どこにもいないからです。

 また、自分を赦せていない人は、「自分の力で何とか解決できる」と、しがみついているのかもしれません。現実はどんなにがんばっても、イエス様の十字架の赦しなしに、罪はゆるされません。私たちは、自分の力で自分を変えることができないくらい、無力な存在なのです。もし、自分の行いによって解決されるのであれば、福音は必要なくなります。私たちは今、福音の喜びの時代に生きています。福音とは、良き知らせといいますが、「イエスの十字架によって赦されること、神様に愛されていること、神様の子供とされている」ことです。イエスは、社会の片隅に追いやられている人たちや、病気や職業によって差別されている人たちに、手をさしのべました。「自分なんて生きている資格がない」と思う人に、イエスはどんな言葉を告げたのでしょうか。イエスは、「あなたは、失敗しても、どこまでも神さまに赦される存在」と言ったのではないでしょうか。人は、赦されて神さまとの関係を回復し、神様と和解して生きることができます。それは、神様からの恵みであり、無料の優しさの贈り物であり、神様からの私たちへのプレゼントなのです。私たちは神さまからのプレセントを受け取るだけでよいのです。首を横にふって、「私は赦されませんから」と神さまに、立てつかなくてよいのです。

自分の無力さを認めたところから、神の子としての本当の成長がはじまります。人は、

自分の弱さを知っているからこそ、思い上がることなく、謙虚に生活してゆくことができます。大きく見せようと背伸びするのでもなく、自分の実力以上のすることもなく、ありのままの自分を受けとめられるとき、命は美しく輝くのです。

 

2、マルタとマリア

 今日は読みませんでしたが、ルカによる福音書1038~42節には、マルタとマリアの出来事が書かれています。マルタは、「あれもしなければ、これもしなければ」と焦ります。イエスをもてなすために大忙しのマルタは、「なんで私だけ忙しいのですか。マリアは、なにも奉仕していません。ただ話を聞いているだけです。なんか言ってやってくれませんか」。マルタは、そう思ったにちがいありません。マ

マルタは、何かをすることだけに価値があると、思い込んでいたのです。黙って話を聞いているマリアに、腹をたてたのでしょう。しかし、イエスは答えます。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」確かに、忙しく動き回ることは大切ですが、マルタは自分だけが正しく、マリアが間違っていると思ったのです。

 現代は、マルタのように「何か行動をおこすことが、どこか素晴らしいことだ」と思いがちです。そのために人は、小さい時から結果を出さなければならないと、焦ってしまいます。

幼子から大人までもが、結果をだす人間を求め、人間の存在の大切さを忘れてしまっているようです。そんな私たちに向かってイエスは、「野の花や、空の鳥を見なさい」と言われるのです。神さまに装ってもらった野の花のほうが、どんな立派な服装を着ている王よりも、美しい、とイエスはいうのです。「道端のタンポポなんて、誰の役にたっているのか」と見てしまいがちですが、神様は、野の花が咲いている、その存在自体を美しいもの、価値あるもの、と呼んでくださっているのです。ましてや、私たち人も、生きているだけで、どれほど神さまは喜んでくださっているのでしょうか。

マリアは、ただ聞くことだけでした。耳を傾ける時間があったら、何か行動を起こしなさいと、焦らせる現代です。しかし、イエス様は、マリアを正しく評価しました。私たちもイエスに対して、「あれもしなければ、これもしなければ」認められないと、慌てていないでしょうか。

しかしイエスは、マリアのように、イエス様の足もとに座って耳を傾ける存在を愛されました。それは、何もできない幼子を愛する親のように、ただいてくれるだけで、神様はお喜びなさっているのです。マリアはおそらく、イエスと共にいる時間が楽しかったのでしょう。時間を忘れるほど、楽しかったのでしょう。イエスの言葉を聞き、笑顔でうなづいているマリアが浮かんでくるようです。

 

3、ヤコブの手紙から

ヤコブの手紙に「人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになる」と書いてあります。現代は、マリアのような、ただ耳を傾ける存在を役立たずといい、マルタのように立派な何か奉仕できる人だけを、集めようとする時代になってきているのかもしれません。

しかし、聖書では、どの人も神さまにつくられた存在としてみています。一人一人は、神様の手抜きすることなく創られ、一人一人が最高傑作な存在なのです。人間一人一人には、それぞれ個性があり、その人らしさがあります。

神様は、どんな人でもこの世界に居場所が与えられるように創られました。障害があるなしにかかわらず、一人一人が自分らしく、のびのびと生きられる世界として創られました。神さまは、人を分け隔てすることなく、人を愛してくださるのです。

それは、神様の前で「自分で良い」ということです。ひまわりが、チューリップの花になれないように、ひまわりはひまわりなのです。人間も、誰かほかの人になれるわけではありません。私たちは私たち以外になれないのです。それは、神様が決められたことだからです。自分を憎んだり、自分を否定しなくてよいのです。

聖書では、隣人を自分のように愛しなさい、と書かれています。ヤコブも、イエスの教えを知っていたのでしょう。最も尊い律法だと、ヤコブは言います。ヤコブは、イエスが教えられたように、やはり「自分のように」という言葉をつけなければならなかったのです。人間は、自分を大切にできなければ、決して他人を愛することは不可能だからです。ただ単純に、隣人を愛しなさい、という教えではないのです。

神様は人それぞれが個性ある存在として、神様は創られました。私たちは、「私をこのように創ってくださって感謝します」と、神様を賛美してよいのです。「もっと、自分はあれができたらよかった」と、落ち込まなくてよいのです。

ローマの手紙では「造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です」と、パウロは言います。神さまは、私たちの造り主です。私たちは誰もが、神様の大切な宝物であり、神様の作品です。お互いに、神様の作品であれば、分け隔てする必要がないことを、私たちは気づくのです。ある神父は、「人と同じことができないからと言って、自分を責める必要はありません。人と同じことではなく、自分がすべきことをすればいいのです。大切なのは、人と同じものになることではなく、自分自身になることです。バラにはバラの美しさが、タンポポにはタンポポの美しさがあります。どちらが優れていて、どちらが劣っているということはありません。どちらも、最高に美しいのです。」と言っています。

イエスは、どこまでも赦しなさいと言われました。私たちが何度転んでも、何度失敗しても、手をかしてくださる方がおられるのです。失敗したから、それで終わりではないのです。失敗しても、そこから続く道が広がっているのです。それが、神様の赦しなのです。

 

神様の愛は、人を生きる希望へと変えてくださいます。生きる勇気へと変えてくださいます。この喜びをもって、共に支え合ってすごしてゆけるように祈りましょう。