2022年1月


福音とは?

ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 二人はすぐに網を捨てて従った。

マルコ1・14-18 新共同訳

 

1、福音とは

イエス様は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。「自分なんて、赦されない罪人なんだ」と絶望している者に、イエス様は「あなたも神によって赦される大切な存在。あなたも、私の大切な神様の子供」と呼んだと思います。マルコによる福音書25節には、イエス様は病をもっている患者さんに、「子よ、あなたの罪は赦される」と言っている箇所があります。イエス様は患者さんにむかって、「子よ」という、呼びかけ方を用いられました。その呼びかけは、患者さんだけではなく、私たち一人一人にも、あなたは大切な子どもとして、呼んでくださるのだと思います。

マルコによる福音書310節には、「イエス様が多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエス様に触れようとして、そばに押し寄せたからであった。」と書かれています。病気や職業のゆえに、また律法を上手に守られなかった人たちは社会から冷たい目でみられ、安心できる居場所がなかったと思います。しかしイエス様と出会い、「自分はこんなにも愛されているんだ。こんなにも、自分のことを喜んでくださる方がいるんだ」と確信したと思います。福音をどのように考えるのは、いろいろな意見があると思います。しかし、私自身は、福音とは「神さまが、十字架にかかるまであなたを愛している」という、イエス様の愛ではないのかと考えています。「自分は生きていてもしょうがないんだ。誰も必要とされていないんだ」と思い込んでいる方たちに、「神さまは、あなたを必要としあなたは神さまに愛されている存在です」と神さまの愛を届けることが、神さまの子供としての使命の一つではないでしょうか。

悔い改めて福音を信じなさい、とあります。悔い改めるとは向きを変える、という意味があります。今まで神さまのほうをみずに自分を中心にして生きていたことから、神さまを見つめて、神さまを中心にして生きることです。どこか悔い改めには、罪を後悔する、懺悔する、という意味がありますが、人間の力でいくら懺悔しても罪は赦されることはありません。詩編11959節には「わたしは自分の道を思い返し 立ち帰ってあなたの定めに足を向けます。」と書いてあります。放蕩息子が父のところに立ち帰ったように方向転換して、神さまのところに帰る。それが悔い改めの意味だと思います。

イエス様は、のちのペトロであるシモンと、その兄弟アンデレに「私について来なさい」と呼びかけます。二人は網を捨てて、イエス様に従いました。シモンたちにとって、網はお金を稼ぐもので自分の誇りがつまっていたことでしょう。人はどうしても自分の力に頼ってしまうときがあります。自分の力で仕事や福音宣教をしてしまいがちです。しかし、生活も仕事も人間の力だけで、できることではないのだ、とイエス様は教えられたのだと思います。イエス様にとっては、一人ひとりの才能ではな、一人ひとりの存在そのものが大切でした。「あなたがいてくれればそれだけで私は嬉しい」と言ったのだと思います。

 

2、現代の価値観

よくよく考えてみますと、何かができるから人間には価値がある、という考えが社会に広がっている感じがします。「もっともっと、ああしなさい」と相手に成長を求めます。もっと自分は魅力的にならなければならない、もっと成長しなければならない、とお互いに焦っている感じがします。イエス様の生きていた時代も、ファリサイ派や律法学者たちは、厳しい目で、お互いに監視していました。そして、少しでもはみ出した人や、律法を守られない人たちを罪びとと定め、見下していました。現代ももしかして、お互いを監視しあう時代に、近づいているのではないか、と思うのです。しかし、パウロはローマの手紙122節で「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。」というのです。この世の中と妥協してはならない、というのです。神さまは、天地を創造されました。そして私たちの命も神さまの手によって、一人一人大切に創られ、愛されてうまれてきました。どんなに弱く小さくても、神さまによって造られた一人ひとりは、かぎりなく尊い存在であるのです。神さまによって造られた命は、そのままで価値がある。聖書には、そのような価値観がこめられていると思います。

世の光というラジオ放送を聞きました。その中で、埼玉県川口市にある鳩ケ谷(はとがや)福音自由教会の牧師である、大嶋重徳(おおしましげのり)牧師は、次のように言っていました。『現代は、人の価値が生産性で測られる時代です。会社の役に立っているのか、社会の役に立っているのか、家族の役に立っているのか、そこに生産性があるのかということを問われる時代です。では、キリスト教信仰は、何をもって人の価値が図られるのでしょうか。それは、あなたがそこにいてくれることです。』

私はこれを聞いて、イエス様が弟子たちに求めたのは、「あなたがそこにいるだけでよい」ということだったと思いました。神さまが、一人一人を作り愛されたゆえに、あなたがあなたであるがゆえに、それだけで価値がある、ということです。パウロは、ローマの8章で「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・・わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」と言っています。パウロはどんなものも神の愛から離すことはできないというのです。

 

3、ふさわしいものでなくても

神さまは、わたしたちがたとえ何もふさわしいものがなくても、あなたを愛する、と呼び掛けてくださるのです。あなたを愛する、と決めた方がいるのです。「私は、なにがあろうともあなたを離さない。」と決断した方がおられるのです。愛されるために、特別なことは必要ないのです。自分以上の自分を演じて、大きくなろうと必死になっていきることでもありません。ただ、神さまの愛に心を開き、「あなたの愛を信じます」と、神さまの言葉をまっすぐ受け止めることだと思います。神さまは、「あなたで大丈夫だから、あなたでついてきなさい」と呼びかけてくださるのです。

インドで、最も貧しい人たちに仕えたマザーテレサは、自分のことを「神さまの手の中の一本の鉛筆」と、言っています。ともすれば、自分で自分の人生を作っているように思いがちです。しかし、神さまが働いて、私たちを通して、美しい絵を描いてくださっている、ということだと思います。

優れた芸術家は、間違えた線さえも美しい絵の一部にしてしまいます。人には間違えて、線をかいてしまうことがあります。しかし、そこで絶望しなくてよいと思います。神さまは、間違えた線さえも、美しい絵の一部にしてくださるのです。「もう私は間違えたから、ダメだ」と絶望しなくてよいのです。神さまは、たとえ間違えたことさえも、私たちの宝物として用いてくださるのです。ペテロも「あなたを絶対裏切りません」と告白したのに、裏切りました。ペテロは、「もう私は赦されない」と、後悔した時があったかもしれません。しかし、復活したイエス様は、あっさり弟子たちの罪を赦しました。弟子たちは、赦されて、新しく立ち上がりました。裏切ったことは残念なことでした。しかし、それによって赦される体験を知り、神様の愛を経験しったのです。赦される経験をしていないと、もしかして自分たちの才能によって伝道したかもしれません。弱い人を、「あなたはクリスチャンらしくない。失格だ」と裁いていたかもしれません。しかし、弟子たちは、自分たちの弱さを徹底的に知りました。裏切ったことは残念なことでしたが、神さまをそれを通して、様々な恵みを弟子たちに教えました。間違った線さえも美しい絵の一部にしてくださったのです。キリストの愛からわたしたちを引き離すものはありません。この年も、「私は神さまに愛されている」と確信し、神さまに委ねてすごしてゆけるように、祈りたいと思います。


イエスも洗礼を受ける

そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

マルコ1・9-11 新共同訳

 

1、 イエスの洗礼

イエスはどうして洗礼を受けられたのでしょうか。イエスは神であるので、罪の赦

しの洗礼は必要ないのではないか、と思ってしまいます。しかしイエスは「洗礼を受けさせてほしい」と願ったのです。人間として同じ弱さを抱える者として私たちに寄り添い、私たちを愛するためだったと思うのです。私たちはつい、同じ人間でありながら「自分は正しい、相手は間違っている」と、相手を自分の固定観念によって支配してしまうそうになる時があります。しかし、神さまは人間を一人一人異なるように作られたのですから、できること、できないことは一人一人異なるのです。異なるからといって、神さまの使命がない、とはいうことはできないのです。一人一人にあった神さまの使命は、一人一人に異なるように与えられているのですから、「神さまは私を愛している。神さまは私を必要とし、神さまの子どもとしての使命を与えてくださっている」と信じてよいのです。一番神さまが悲しまれるのは、自分の考え方に固まってしまうことであるのです。

 

2、 謙遜と傲慢

「私は罪人なんだから、許されない。」「私は弱い存在なので、神さまにとって必要ではない存在なんだ」。私たちは、神さまの御心ではなく、つい謙遜といいつつ、神さまの御心に逆らう傲慢な態度になってしまうのです。また、「私にはなんにもできない」というのは「私にはなんでもできる」と言うくらい間違えています。神様は、一人一人にその人にしかない、良いものを与えているからです。「私にはなんにもできない」というのは、謙遜ではなく、傲慢であるかもしれません。神様は私たちに強さのみではなく、弱さも与えておられます。弱さがあるのは偶然ではなく、私たちが互いに助け合い、神様に助けを求めるために、私たちに与えたものなのです。「私は弱いから価値がない」と落胆する必要はありません。神様は強さと弱さを与えてくださったことに感謝し、等身大の神さまに作られた自分を大切にしてよいのです。

 それは、イエスの態度にもみられるものです。イエスは、自分は神の子なんだから、えらくふるまって当然、というような考え方はしませんでした。私たちと同じように、罪びとの列に並び、洗礼を必要とされたのです。それはイエス自身も、いつも自分の考え方にこだわっているのではなく、日々、神さまの御心にゆだねる生活でした。イエスでさえもそうだったのですから、私たちもいつも一人で正しいことをし、間違いをおかさず、完璧な存在を目指す必要はないのです。

もし一人で、神の国ができるのであれば、イエスは弟子たちなど必要なかったのです。自分の能力と、神に与えられた賜物を用いてしたほうが、効率的にも優れていたからです。しかしイエスはあえて、弟子たちを必要とし、訓練し、弟子たちを愛されました。イエスが十字架にかけられるときには、弟子たちは不安と恐れで、自分たちの身を守ることで必死でした。そんな弟子たちの前に、復活したイエスはあらわれ、「あなたがたに平和があるように」と挨拶されたのです。その挨拶は、どんなに弟子たちは嬉しかったことでしょう。「私はイエスによって赦されている、またやり直すことができるんだ」という喜びと希望にあふれたことでしょう。

 弟子たちは、自分自身の弱さと直面し、それでも赦される神さまの愛を知りました。裏切ることは間違いでしたが、しかし裏切ることによって、神さまの愛を知ることができました。もし赦しを経験しなかったのであれば、弟子としてふさわしくなかったのかもしれません。自分はいつも正しい、神の赦しなど必要ないと威張って、相手と議論するだけの伝道者となっていたからかもしれないからです。

自分は正しく相手は間違っているという態度ではありませんでした。イエスのように、真正面から自分にむきあうときに、自分の弱さ、欠点が見えてきて、私には神さまによる赦しが必要だとみえてきます。自分の弱さに直面するときに、そこにとどまるとき、絶望しかないかもしれません。しかし私たちには、「十字架の赦し」によって、「あなたはイエスの十字架によって、赦された存在だ」とわかってくるのです。赦されないままにとどまることはないのです。私たちは、神さまに赦される存在なのです。一日の終わる時に、布団で、「今日はなんにもできなかった」と絶望する必要はありません。人は、自分がいつも何をしたのか、どんなことができたのか、どんな優れたことをしたのかで、自分自身を評価してしまうのです。

 

3、 あなたは私の愛する子

それがわかるのは、イエスが洗礼を受けた時に、天から響いた言葉です。「あなたしわ

たしの愛する子、わたしの心に敵う者」という言葉です。天のお父さんは、イエスにエールをおくったのです。自分は正しいとうぬぼれるのではなく、神の前に小さく謙遜になるものを、神さまは喜んでくださるのです。耳をすますと、神さまは私たちをどのように思っているのか、聖書の言葉からみえてきます。「あなたはわたしの愛する子」という言葉は、イエスだけに向けられた言葉ではなく、自分の弱さを認め、神の前にひざまずく一人一人に向かっても向けられた言葉であると思うのです。自分の弱さに悩み、不安に襲われて生きている者にむかって、「あなたは神さまに愛されている、価値のある、神さまの子どもだ。あなたは私の愛する子だから、これからも、なんとかなる」と神さまは約束してくださっているのです。自分の力でがむしゃらに頑張るのではなく、肩の力を抜き神さまの導きを信じてよいのです。そのときに、イスラエルの民たちは海の中にできあがった道を通ることができたのです。人間の努力や功績をつんでも、海を分けることは不可能でした。しかし、どんなに無理なことでも、神さまの手にゆだねるときに、そこに道は開かれるのです。人は、つい自分の人生の計画を自分の思った通りにならないとイライラします。しかし考えてみますと、神さまは一人一人に一番よい道を準備してくださっていることに気づかされます。それは、もちろん自分の思った通りにならなかったかもしれません。人生の壁、試練、病気、さまざまな状況によって、私たちは時々、神さまは違う方向に人を導かれることがあります。しかし、その道は無駄な道ではありません。神さまの目からみたら、その道はどうしても必要な道だったのです。神さまが与えてくださった道は、一番いい道です。その時に人は、何事も自分の思い通りにしたいという心から、解放されるのではないでしょうか。

強がり、相手を裁きがちになる私たちとは反対に、イエスは、「私も洗礼を受けたい」という模範を示されました。どんなに小さくても、弱くてもいいのです。かえって、小さくて弱いほど、神さまと深くつながることができるのかもしれません。何もかも、自分の力でやろうとする必要はありません。イスラエルの民が神さまを必要とされたように、自分の力だけで、何もかもできるはずがありません。できないことまでやろうとすると、人は失敗するのです。自分の力で海を二つに分けようとどんなに頑張っても、失敗するだけです。できないときはできないことを認め、助けてもらう勇気をもってよいのです。

 イエスは、洗礼を必要とされました。私たちも、神さまの赦しが必要です。自分の力のみでやっていく必要はありません。神様に愛されるために、何か役にたつことが必要ではありません。自分の命を精一杯生きているだけで、神様に愛されるのです。つい、自分の価値を、何ができるか、社会でどんな役に立っているか、で評価しがちです。しかし、神様はただ咲いている野の花を、社会で何の役にも立っていないような空の鳥を、生きているだけで愛してくださっているのです。「私は社会で何の役にも立っていない」と落胆するとき、空の鳥を見上げたいと思います。今年も神様に愛された命を、自分らしく精一杯生き、神さまに赦された子供として誇りをもって生きられるように、神さまに願い求めたいと思います。