2022年2月


イエスと麻痺をした男

数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、 四人の男が中風の人を運んで来た。 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。

マルコ2・1-5 新共同訳

 

※クリスティアン・メラー『慰めの共同体』(教文館)を参考にしています。

 

聖書テキストは、カファルナウムの町に、「イエス様が来る」という噂が広がっている、というところからはじまっています。もしかして、この体の動かない男性も、何かが起こっているのを、感じたかもしれません。けれども、一つ問題がありました。それは、この男は中風であった、ということです。中風というのは、脳血管障害の後遺症である半身不随、言語障害、麻痺などがあらわれる状態をいいます。英語の聖書をみてみますと、paralyzed manと書かれていました。そのまま翻訳すると、麻痺した男、という意味です。最近出版された、聖書協会共同訳という聖書では、中風という言葉がなくなり、「体の麻痺した人」と翻訳されていました。新共同訳に従い、中風の人と呼びたいと思います。中風の人はイエス様のところへいきたい。けれども、動かないのです。けれどもどうしたことでしょう。この中風の人は、4人の男と出会います。福音書記者マルコは3節で「四人の男が中風の人を運んで来た。」と報告しています。この中風の人がもし、「私は助けられるなんて嫌だ。自分の力でなんとかしてみせる」と言っていたら、いつまでもイエス様のところにいけなかったと思います。この中風の人は、自分の限界を知り、助けられる、という選択をしました。

しかし、せっかく運ばれてきましたが、「しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかった」のです。けれども、この4人の男性たちはとんでもない方法を考えます。それは、イエス様のおられるあたりで屋根をはがして、穴をあけるというのです。「だいたい、ここらへんかね」、いやそこではない。「じゃあ、ここらへんかね確かめてきてくれ」という男たちの声がきこえてきそうです。そして、イエス様のおられるあたりを定めて、穴をあけたのです。けれども、下にいる人には、埃をかぶったかもしれません。ましてや、イエス様のおられるあたりです。これは大変です。人の家を破壊しているのです。そのような中、一人の男がつりおろされてくるのです。

では主イエスが、この体の動かない男をどのように扱われたのか、よく注意してみたいと思います。「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦された』と言われた。」

 

相互の助け合い

驚くのは、第一に、この人たちの信仰を見て、というのです。体の動かない男性の信仰を見てというのではありません。この寝たきりの男性がしたこととは聖書には一切書かれていません。けれども、この中風の人を助けた4人の仲間たちの信仰を、イエス様は信仰とよんでくださったのです。

まったく動けなくなった時に、人を真に生かすのは自分を誇る力ではありません。自分の背伸びでもありません。それは、時には身をゆだねることであり、時には運びあう、という助け合いです。私達は時には、自分の力のなさに悩むことがあります。そういうときにこそ、一人の人の辛さや、痛み、悲しみを自分のものとして助け合い、支え合い、祈り合いたいと思うのです。

イエス様は、ルカによる福音書22章32節で、ペテロに「しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言われました。時に、心が弱り祈れない時があるかもしれません。そんな時は、イエス様は祈ってくださる、というのです。自分を差し出して、イエス様に祈ってもらう時があってもよいのではないか、と思うのです。もちろん、祈ることは大切です。しかし聖書では、もう一つの視点を提供しています。それは、隣人を自分のように愛しなさい、という聖書の言葉が示しています。それは、自分に厳しく自分を愛することができなければ、他人にも厳しく他人を愛することはできない、ということです。どうしてイエス様は、ただ単に隣人を愛せよ、と言われなかったのではないでしょうか。

私たちは時々新聞で、老々介護という言葉を聞きます。高齢者が高齢者を介護するときに、疲れてしまって、相手を殺めてしまったというニュースをききます。もちろん、自分の時間、体力を用いて介護することは美徳かもしれません。しかし、自分の体を壊してしまったら、人間には限界がきてしまいます。介護には、周囲の助けをかり、助けてもらうことも必要です。この4人の男たちと、中風の人がしたように、互いに助け合うことによって、私たちは心の深呼吸をして、自分と隣人を大切にして、生きていけるのではないでしょうか。

 

罪の赦し

 第二の驚きは、寝たきりの男性への、罪の許しの宣言です。「この寝たきりの男性は、運ばれてきた」のであり、自分の力では決してイエス様の前までくることができなかったのです。しかしイエス様は、この男性に、罪の許しの宣言をしたのです。「子よ」というよびかけ、もう少し別の訳し方をすると、「私の息子よ」というよびかけは、「その人の業績、評価、素晴らしい行いではなく」、イエス様の前にたつ者の存在そのものが、神さまの子どもとして扱われていることを示しています。

さて、イエス様は、この中風の人に「起き上がりなさい」とおっしゃいます。今までは、全てを恵みによってなしていたのに、最後に「中風の人が自分ですること」は、一つだけ語られていました。それが、「起き上がりなさい」という言葉です。ここで語ったイエス様の起き上がりなさいとは、決して病の癒しをのべているだけではありません。それは、その人のこれからの歩みが、たとえ迷いやすく、倒れやすいことかを、イエスはごぞんじであったと思います。私たちは迷いやすい存在です。弟子たちも、イエス様が十字架にかけられるときに、みなイエス様を捨てて逃げて生きました。けれども、復活したイエス様は弟子たちを、あっさりゆるしました。私達も、この人生で繰り返し過ちを犯したくなくても、間違いを犯すことがあります。しかし、イエス様は、「私はあなたたちをゆるしている。あきらめなくてもいいんだよ。さあ、立ち上がって生きてごらんなさい。」と呼びかけてくださるのです。神さまは、わたしたちの弱さ、不完全さを知りながら、わたしたちをゆるし、愛してくださる方。たとえ何も出来なかったとしても、ただわたしたちが生きていることを喜んでくださる方なのです。人生では、時には助け、助けられるというときがあります。手をとりあって、力をあわせて、支え合ってゆけますように祈りましょう。


神さまの愛という種

また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。 種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、 自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、 この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」

マルコ4・13-20 新共同訳

 

神さまの言葉という種

蒔かれる種が神さまの愛、イエスの言葉であるとすれば、それが土地に深く根を張るとはどういうことでしょうか。それは、神さまの言葉を一番心の奥底で受け止め根をはるということであると思います。しかし、根をはるプロセスの中で私たちの暮らしで様々なものが邪魔をします。イエスは私たちが神さまの愛、イエスの言葉という種が根をはり豊かな実を結ぶために、たとえを用いて教えられています。私たちの心を柔らかくして、神の言葉を素直にうけとめるときに、私たちは、福音の喜びに満たされるのです。

 

2、道端に蒔かれた種

イエスは、ある種は道端に蒔かれ、空の鳥が食べてしまった、といいます。イエスは415節でたとえを説明していますが、「すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれたみ言葉を奪い去る」と、いいます。サタンは、神さまの御心と反対のことを、人に教えます。私たちの生活でもしらないうちに、サタンは入り込んできて、私たちの心に住み着き、神さまのみ言葉が深く根を張るのを邪魔してしまのです。

サタンの策略の一つとして、人の価値を疑がわせるのがあります。サタンは、「あなたはあれもできないし、これも駄目だ」と自信を失なわせてゆくのです。そのため、つい他人と比較して、自分の価値を決めてしまうのです。しかし、聖書をひらき、イエスの言葉にまっすぐ目をむけるときに、「私たちは、神さまに愛されている、かけがえのない大切な神さまの子ども。小さくても弱くても、生きているだけで限りなく尊い存在」であることがわかってきます。

そして、冷静になって、いま自分が考えているのは、はたして本当に神さまの御心なのだろうか、とチェックしてみていいのです。冷静になるなかで、人はゆっくり自分の存在のことや、これからのことを、焦らずゆっくり自分のペースで取り戻すことができるのです。神さまに作られた私たちであれば、比較をやめて、神様に作られた自分が自分であることに、価値があるとがみえてくるのです。「人がどう思おうと、自分は精一杯生きている」と確信してよいのです。「神様はこんな自分でも愛してくださる。神様に与えられた使命を全力に生きている。」と、神様のために生きるとき、周りに流されず、本当の自信が生まれるのです。周りがどう変化しようとも、自分は自分であることに自信がある人は、周りに流されることはありません。神さまが与えてくださった道を、自分のペースで歩んでゆけばよいのです。

なんでも焦って結果をだそうとするときがあります。「早く結果が知りたい」と思い、待てないときがあります。しかし、種を蒔いてすぐに花を咲かす花はありません。時間がかかるのです。神様は私たちに、待つという恵みを与えてくださいました。人も最初から上手にできる人はいません。失敗や悲しみを経験し、少しずつ上手になってゆくのです。完璧な人はいません。私たちは、それぞれ異なるペースで成長してゆくのです。

 

3、石

 イエスは、石だらけで土の少ないところに落ちた種とは、心の頑(かたく)なさであるかもしれません。イエスに、「お互いの罪を赦し合いなさい」と教えられても、他人は赦せても、自分自身を赦せない人も多いのではないでしょうか。「今の自分じゃ駄目だ。もっと優れていなければ価値がない」と思い込んでしまいます。しかし、人間はどんなにがんばっても、弱さを抱えています。人にできるのは、自分の力のみで頑張ろうとするのではなく、神様の助けを願うことです。「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6:34)という言葉が、聖書にあります。私たちは、未来を心配してしまいます。それは、自分の思い通りになってほしいという、プライドにあるのです。自分の思い通りにならなくても、「人生の道は神様が準備してくださるから、神様に与えられた賜物を用いて、自分らしく精一杯生きるだけだ」と信じられたなら、身を軽くして生きられるのです。イエスは、石だらけで土の少ないところに落ちた種は、根を深くはることはできない、というのです。神さまの御心ではなく、自分のプライドや固定観念が石となって邪魔をして、根をはるのを邪魔してしまうのです。その固定観念の一つに、キリスト者とはどういう存在であるのでしょうか。イエスがもし、私は正しい人を招くためにきて、罪びとを裁くためにきた、といっていたらどうでしょうか。もしそうであれば、イエスは罪びとのために来たのではない、とわかります。しかしイエスは、そうはいっていません。イエスははっきり、マルコ217節で「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くために来た」と言われたのです。もちろん、正しい人を目指し、キリスト者らしい生活をおくることは大切なことかもしれません。しかし、どんなに正しく、神さまの教えを守っていたとしても、憐みの心、赦しの心、愛の心を忘れてしまったならば、イエスと敵対したファリサイ派という、グループになってしまうのです。ファリサイ派の人たちは、とてもまじめで、生活の隅々まで神さまの教えを守っていました。

宗教的に正しい人と、多くのユダヤ人からみられていたのです。しかし、イエスは正しさを求めるよりも、神の前に謙遜で、真実な悔い改めを求めていました。そして、たとえ罪びとと呼ばれる人であったとしても、すべての人は神さまに愛されている、かけがえのない大切な神の子どもである、とよびかけたのです。おそらく、当時社会生活から隔離されていた罪びとと呼ばれている人たちは、喜んだのではないでしょうか。「私も神さまに愛されている子供だ」という誇りを取り戻したのではないでしょうか。ファリサイ派の人たちは、自分の固定観念やプライドによって、心を頑なにしていました。まさに、石だらけの土地に蒔かれたのに、似ているのです。自分のプライドを一つ一つチェックして、背伸びして自分を大きく他人に見せようとしていたら、無理をするのをやめ、神さまに作られた等身大の自分に戻ってよいのです。石を一つ一つ取り除く中で、心を柔らかくして、希望の芽がはえてくるのです。ときどき、自分の心をチェックして、背負い過ぎていた重荷をおろしてみましょう。

 

4、茨

最後にイエスは、「ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので」とイエスは言います。イエスは、「この人たちは、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない」といいます。人は、「あれも手に入れなければ、これも手にいれなければ幸せになれない」と思い込んでしまうことがあります。何かを持っていないと不安になるのです。しかし、イエスはマルコによる福音書1014節で「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」といわれたのです。たとえ、何ももっていない子供たちを、イエスはそのままの姿で、神さまに作られた命を愛し、かけがえのない大切な存在として受け止めてくださったのです。私たちは、たとえ小さく弱くても、それでもかけがえのない大切な存在として、神さまは受け止めてくださるのです。神さまの愛に気づくときに、茨は少しずつ取り去られていきます。この世の思い煩いや富の誘惑に心がすっかり支配されていた心が、柔らかく耕かされ、神さまの愛とイエスの言葉が、ますます心に根をはり、豊かな実を結ぶことができるのです。「あれもできなければ、これができなければならない」と心配する必要はなさそうです。神さまは、小さき子供を愛されました。他人の助けを借りながらしか生きられない子供たちは、誰が偉いのか競うこともなく、神さまに作られた日々を楽しみ、喜んでいるような気がします。私たちも、「あれもしなければ、これもしなければ実を結べない」と心配する必要はありません。小さき子供を神さまは愛されたように、神さまに愛されるために、特別なことをする必要はないのです。必要なものだけを持ち不要なものは持たなくてよいのです。神さまの使命を果たすためには、そんなにたくさんのものは必要ないのです。「あれもなければ、これもなければ」と心配する必要はないのです。神さまが、私たちに必要なものを知り、すべてを備えてくださるからです。