2022年3月


ペトロ、イエスをメシアと告白する

イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。

マルコ8:27-30 新共同訳

 

ペテロはイエス様を「メシア」と呼びました。ペトロがイエスをメシアといった言葉の中に、様々な思いがこめられていると思います。それは、メシアという言葉には救い主という意味がありますがそれも含めて、「イエス様によって、わたしの人生の迷いが消え去りました。あなたに愛され、神様の子供にされています。私はどこまでもあなたに喜んで従ってゆきます」という、喜びがつまった言葉であると私は思います。

この後ペトロはイエス様の受難を否定し、厳しく注意されてしまいます。それは、イエス様が言われるように、「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」からでした。人は、どうしても人生の主人は自分である、と考えてしまいがちです。しかし、聖書には、神さまは羊飼いである、と書かれています。神さまは、私たちを導き、わたしたちの道を準備してくださる方です。この羊飼いは、迷った一匹の羊を探してくださる方です。99匹の羊を残してまで迷った一匹のために、どこまでも時間をかけてくださる方です。時には失敗したり、迷ったりするときであっても、私たちを決して見捨てることはないのです。

しかし人は、羊飼いである神さまを忘れてしまい、自分を中心にしてしまいます。自分を中心するとは、自分を神さまにする、ということだと思います。人は、あれもこれも欲しがってしまい苦しみに陥っていきます。私たちの苦しみは、「あれが欲しかったのに、手に入らなかった」ということから生まれてくると思います。しかし、神さまを羊飼いにするときに、今すでに神さまの恵みは「あなたに十分である」ということが見えてきます。神さまは、ひとり一人に最善な道を用意し、導いておられます。もちろん、自分のできることは精一杯することは大切です。しかし、あとの結果がたとえ自分の思いどおりにならなくても、神さまは様々なことを通して私たちを成長させてくださるのです。

「将来はこうであるべき」という思い込みを捨てたら、ずっと心が楽になると思います。自分の思い通りにならなくても、「神さまが準備してくださるから、この道でいいんだ。自分のできることは精一杯して、あとは神さまに委ねていこう」とすると、心にたまっていた重たい荷物が軽くなるように感じます。

私も、就職して1年目に発達障害の疑いがあると指摘されたとき、「自分はそんな病気をもっていない」と拒否したことがあります。「自分の力でなんでもできる」と思っていたのです。自分の弱さや限界を素直に認め、サポートしてもらえばよかったと、時々振り返ることがあります。私は自分の人生は、自分が主人であると思っていたのです。しかし、今は少しずつですが、自分の力でがむしゃらに頑張るのではなく、他人に助けられ、助けて、支え合って生きてゆくことが大切であると思うようになりました。「人はいつも強くあらねばならい。弱いところをみせてはいない」というのは、私の思い込みだったのです。

 

2、神さまを中心に

キリスト者は、イエスをメシアと告白します。イエス様との関係こそが、どんな関係よりも大切であるということだと思います。しかし、人は神様との関係でなく、人間の評価や人間関係を気にしすぎてしまうことがあります。人間に評価されているから私は価値があると気になってしまったら、それは地上のものに土台を置いてしまっていることになります。

もしころりと、明日から他人の評価が変わったら、自分の人生を見失うことになるでしょう。反対に、もし誰からも評価されなくても、「今日も神様に愛されている。それだけで私は満足だ」、と神様の恵みに土台を置いているなら、自分の人生を神様に土台を置いていることになります。神様の関係に土台を置いていたら、どんな嵐が襲ってきても流されることはありません。メシアという言葉の中には、神さまの関係をなによりも大切にする、という意味がこめられていると思います。

ペトロは、メシアと告白しましたが、イエスが苦しみを受けられることを否定しました。先ほどもいいましたように、人間は自分の考えを捨てきれないことがあります。ペトロは、はっきり神のことを思わず、と指摘されます。

ペトロが忘れていたのは、「聞く」、ということでした。パウロも、ローマの手紙1017節で「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」と言います。イザヤ書481節でも

 

「ヤコブの家よ、これを聞け」

 

といいます。信仰は神様の恵みの言葉に耳を傾けることによって、はじまると私は思います。聖書の言葉を通して、イエス様は一人一人に「あなたは愛されている神様の子供」と呼びかけているのです。また、罪責感で苦しみ自分を責めているひとに、「イエスはあなたを赦している」と呼びかけています。寂しいときは、「神さまはいつもあなたと共にいる」とよびかけています。神様は愛であり、どんな時も、慈しみをもって私たち一人一人に呼びかけてくださいます。

なにかと日常生活のなかで、走りまわってばかりいて、疲れはててしまうときがあります。神さまの声に耳をすますことを忘れてしまうときがあります。神さまの声を忘れてしまう時に、人はだんだん自信を失っていき、他人の評価や声に振り回されてしまうようになりがちになります。そして、心の中に重たい荷物をためていってしまうときがあります。それに対してイエス様は弟子を宣教の旅に派遣するときの言葉が、マルコによる福音書6章に記されています。そこには、

 

「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。」

 

と書いてあります。人は、旅するとき、何かをはじめる時、「あれも必要だ、これも必要だ」と、思ってしまいます。「私は、神さまの使命をはたすには、もっと成長してからでないとはじめられない」と、自分を整えようとします。そのために、「自分では無理だ」とあきらめてしまうのです。しかし、イエス様は弟子たちに完璧を求めませんでした。イエス様は、杖の他にはなにも持たなくてよい、パンもお金も持たないでゆきなさい、と弟子に教えるのです。お金もないのですから、宣教の旅先で誰かにご馳走になったかもしれませんし、宿泊させてもらったことがあったかもしれません。誰かと支え合い、わかちあうこと。そして感謝すること。そのようにして、イエス様の弟子たちは、人々の優しさにふれ、支えあって福音宣教の旅をしていったと思います。この旅を通して、イエス様は、どんなときも神様が備えてくださるから安心しなさいと、弟子たちに教えたかったのでしょう。また、イエス様は決して一人で弟子たちを派遣しませんでした。二人を一組にしたと書かれています。それは、「一人の力でがんばっていきなさい」ということではなく、「互いに助け合って、支え合ってゆきなさい」と教えられたと思うのです。

 

生きていく中では、ペトロのように、時には神のことを思わない時があり、間違いを犯してしまうこともあるでしょう。間違いを犯してもイエス様はペトロを赦し、愛されました。私たちも神さまに立ち返り、神さまに耳を傾けるときに、神さまは「あなたを愛している」という言葉をきくことができるのです。神様に赦されて、繰り返し新しくはじめる力を神様は与えてくださるのです。ペトロが告白したように、私たちもイエスをメシアと告白し、イエス様に喜んで従ってゆけるように祈りましょう。


違いの違いを喜び合う

イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。

マルコ3・20-22 新共同訳

 

イエスの行動

イエスの行動は、良いことだけではなく、様々なトラブルをユダヤ人の社会や生活に引き起こしていたことが聖書の箇所からみえてきます。21節に、身内とありますが、おそらく親戚や家族のものが「イエスよ、もうこれ以上周りに迷惑をかけないでくれ。」と心配して、取り押さえにきたのでしょう。親戚の人も、身内や家族の人も、心配だったのでしょう。21節の続きには、「あの男は気が変になっている」と言われていた、とあります。しまいには、「悪霊の力で悪霊を追い出している」ともいわれます。様々な悪い評価や評判が、イエスに与えられていたことが、みえてきます。

 

2、悪と戦うキリスト

 しかし、イエスは神さまの御心を行うことを止めませんでした。自分がこの地上に来た使命を、しっかり知っていたのです。ですから、周りにどんな評価をされようとも、真正面から自分のするべきことをして、悪に立ち向かいました。おそらくイエスの心には、たとえ人からどんな評価をされようとも、神は私を愛している。私は大切でかけがえのない大切な存在であることを、知っていたのでしょう。自分は何者かをしっかり知っていたからこそ、周りの反論に動揺することなく、自分の福音宣教の使命を着々とはたしてゆけたのです。イエスは、神さまの御心に集中していました。誰も神さまの御心を知ることはできません。しかしイエスの行動や、教え、聖書をひらくなかで、イエスに現わされた神の愛の中で、神の御心を知ることができるのです。

 

3、12人の弟子

 聖書にはイエスは12弟子たちを選ばれたことが記されています。この記事一つとっても、神さまの御心とは、一人の人の能力によって教会が成り立つのではない、ということを示しているでしょう。イエスは、不完全で弱さを抱えている弟子たちを選び、愛されました。

一人の偉大な人物によって維持される共同体ではなく、お互いの賜物を生かしあって、お互いの違いを喜び合う共同体をイエスは目指されたのです。キリスト者一人一人には、神さまは異なる賜物が与えられているのです。ほかの人ができることを自分ができないからといって、落胆する必要はありません。神さまが与えてくださった自分を喜び、自分の賜物を用いて、隣人や神さまに仕えることができるのです。神さまがせっかく賜物を与えてくださっているのですから、「私は神さまに、何も与えられていない」と嘆くのは、もったいないことです。完璧にできなくてよいのです。「私にはそんなことをする力がない」と最初から諦めてしまうことがあります。全てを完璧に、一人でこなそうとしているからでしょう。完璧にできる人はいないので、自分ができることを精一杯すればよいのです。一人で出来ないことも助け合うと出来ることもあります。自分一人で重荷を背負わなくてよいのです。イエスは完璧な存在であったのに、あえて弱く、不完全な弟子たちを必要とされました。それは、神の御心でした。弟子たちは、イエスが十字架にかけられたとき、自分の身を守るために逃げていきました。おそらく、弟子たちは、自分自身の弱さと直面し、自分を嫌いになったことでしょう。「あんなにイエス様に従っていたのに、肝心なところで逃げてしまうなんて、なんてことをしてしまつたんだ」と絶望したことでしょう。自分を責め続けたかもしれません。しかし、神さまの御心は、復活したイエスによって示されました。それは、どんなに間違いを犯しても、人には新たにやり直す希望が与えられていることです。復活したイエスは、弟子たちを赦し、福音宣教の使命を託しました

弟子たちだけではなく、私たちの生活の中でも、人間関係がうまくいかなかったり、仕事で大きな責任を任せられた時、「自分ではもうできない」と逃げたくなるときがあります。しかし、自分ではできないとき、そこで終わりではないのです。自分の限界に気づいたとき、いよいよ、そこからが神様の出番なのです。「神様、私には限界です。あなたにお委ねします」と祈るとき、神様は私たちに力を与えてくださるのです。もう無理だと思った時こそ、神様の出番です。神様にゆだね、自分が今できることは精一杯すること。それが一番なのです。

 

4、神の家族

 イエスは、神の御心を行う人を、家族としてたとえてくださいました。マルコ335節でイエスは、

 

「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」

 

と言われました。イエスにとって、もはや私たちは他人ではないのです。神さまに愛された、かけがえのない大切な尊い存在。たとえ小さくても弱くても、神さまの愛に包まられて愛されている、大切な神さまの子供なのです。

 家族であれば、なんでも神さまに相談することができます。進路や人生の道、病気や試練に出会ったならば、一人で孤立する必要はありません。「神さま困っています」と祈り、神さまにお委ねすることができます。主の祈りでは、神さまは天のお父さん、もっとくだけていえば、天のパパと、よびかけています。天のお父さんは、自分の子どものことを知りたいと思うでしょう。今日一日あったこと、いま心配なこと、困っていること。お父さんは、相談にのってくれるのです。そして、どんなに大きな試練にあったときでも、神さまは逃れの道を備えてくださると、聖書は約束しています。自分がたとえ小さくても弱くても、神さまにお委ねするとき、神さまは道を開いてくださるのです。

疲れたものよ、重荷をおうものよ、私のもとに来なさい、と語りかけるイエスは、前に進みたがる私たちに向かって、時には神さまのところで休み、立ち止まる大切さも教えられています。現代の社会は、前に進むことだけを考え、全身し、自分を大きくすることのみ考えようとします。しかし、走り続けていれば、神さまが創られた野に咲いている花の美しさ、花の香り、鳥のさえずりの美しさを感じ取ることはできないでしょう。走り続けることも大切です。しかし、人は時には立ち止まり、神さまの前に重荷をおろすことも、同時に大切なのです。その静けさの中で、神さまと静かに向き合い、人は祈ることができます。「あなた一人の力で、なんとかしなさい」とイエスは言わない方。家族として、困ったときはいつでも相談でき、寝食を共にし、病気のときは看病してくださる方。イエスは、私たちを他人としてみていないのです。

イエスは、神の御心に逆らうあらゆる悪に立ち向かいました。罪びとの命や、社会の片隅においやられている人の命を、徹底的に守ろうとしました。職業や病気などによって差別されている人、一人一人の人々に「あなたは神さまの子ども。神さまはあなたを愛している」と伝えたのです。それは、神さまの御心でした。私たちは時に、この世の価値観や、現代社会の価値観で、「命はどうでもいい存在。何か優れた働きをしなければ価値がない」と、レッテルをはってしまうことがあります。しかし、よくよく考えてみますと、それは人間の勝手に作り上げた、一時的な価値観にすぎないことがみえてくるのです。神さまに愛されるために、何か特別なことをする必要はありません。神さまの愛は、何もできなかったとしても、あなたがあなたというだけで、受け入れるだけでいいのです。神さまの御心を行うために、まずは神さまの愛を受け取り、「自分は愛される価値はない」という思い込みを捨てること、愛されるためには心を開き、神さまの愛を受け入れるだけでいいのです。