2022年4月


ロバの役目

イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。 そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、 言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。 もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」 

ルカ19・28-31

 

ロバは、自分なんて役不足だし能力がないと思っていたかもしれません。自分より優れているのは、馬のほうが、よっぽど力強いのです。私たち人も、自分を見つめる時に「自分は神さまに必要されているのかどうか」、時には悩んでしまうことがあります。しかし神さまは、人からたとえ立派だ、素晴らしい、えらいといわれなくても、たとえ目立たなくても、神さまは必要とされるのです。

「自分なんて、役に立たない」と嘆くのは、実は謙遜ではなく、傲慢であるかもしれません。神さまは、一人一人を作られたときに、一人一人に賜物を与えてくださっているからです。神様に愛されるために、何か役にたつことが必要ではありません。神さまに創造された自分の命を精一杯生きているだけで、神様に愛されるのです。つい、自分の価値を、何ができるか、社会でどんな役に立っているか、で評価しがちになってしまいます。しかし、神様はただ咲いている野の花を、社会で何の役にも立っていないような空の鳥を、生きているだけで愛してくださっているのです。「私は社会で何の役にも立っていない」と落胆するとき、今日与えられました聖書の言葉は、イエスがエルサレムに入場する場面です。イエスは、ロバを必要としました。ロバにのると、ロバは小さな動物から、乗ると群衆の人たちと目線が同じになるのです。イエスは、上から人々を見下ろす方ではなく、私たちと同じ目線にたってくださる方。この方は、小さく子供のロバを必要とされました。それには、イエスの主張があります。「私は、あなたがたが思う王ではない」ということです。イスラエルの民たちは、ローマ帝国に勝利するような、力強い王を思い描いていました。人々が、熱狂しているのも、それを期待したのでしょう。しかし、イエスは、自分がそのような王ではないことを、主張したのでしょう。ロバは、馬よりもはるか昔から、人々をのせた動物として使われていたそうです。人をのせるのは自然なことでした。しかし、ロバは歩くスピードが遅く、小さい生き物でした。馬のほうが、王として理想的で、似合っていたのではないか、と私たちは思います。しかし、馬は軍事的なイメージがありました。一方、ロバは、平和の象徴としてイメージされていました。

ゼカリヤ99節でも

 

「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/

高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。」

 

とあります。

野の早、空の鳥を見上げましょう。神様に愛された命を、自分らしく精一杯生きてゆけばよいのです。

 

1、 熱狂

人々は、イエスを軍事的な王として期待していたのでしょう。「これでやっと、ユダヤ

はローマ帝国から解決される」。人々の熱狂は、頂点に達しています。しかし、イエスが目指したのは、軍事的な王ではありませんでした。イエスは、私たちの罪を心配し、誰もが神さまの前で赦されるために、イスラエルへと入城されたのです。

 私たちも、神さまは自分の思い通りにしてほしいと、勘違いしてしまうことがあります。順調な時は、神さまは本当におられると思い、そうでないときは、神さまは本当にいるのか、疑問に思ってしまうのです。

イスラエルの民たちも、数日先は、「イエスを十字架にかけろ」と叫ぶものとなったのです。自分の思い通りになることは、もちろん、心地よいことかもしれません。しかし、私たちの人生の道は、自分で計画していないことが起こることが、しばしばあります。聖書をひらいてみますと、箴言169節では

 

人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。

 

と言っています。自分の思った通りにならなくても、神様が準備して下さった道なら、それが一番いい道なのです。神さまが準備してくださったのであれば、それは間違いがありません。神さまに与えられた道であるなら、「今の自分」を否定するのは、もったいないことです。

自分に思いどおりに、なんでもさせようとするとき、私たちは不安になってきます。「もっと自分が変わらなければ神さまに愛されない、弱い自分は神さまに見捨てられる」と思ったら、ますます焦ってしまいます。しかし、人の歩みは他人と競争し、打ち勝つためにあるのではありません。ロバがゆっくり自分のペースで歩み、神さまのご用のために使命を果たしたように、自分らしく自分のペースで、神さまと隣人と助け合いながら、神さまの使命を果たせばよいのです。受難週のなかで驚くべきことはイエスが弟子たちの足を洗ったことでしょう。イエスは何度も、「一番偉くなりたい者は、皆に仕えるものになりなさい」などといって謙遜を説きました。しかし弟子たちは誰が一番偉いのか議論し、イエスの教えを誤解していました。弟子たちは、偉いものとは、仕える者ではなく、仕えられる者として誤解していました。そのままでは、教会共同体は誰が一番偉いのかで争い分裂してしまうかもしれません。自分の権力や名誉だけを気にしてしまったら、他人を愛するという、神さまからの使命を果たすことができなくなります。イエスが弟子たちの足を洗ったように、身を低くして仕える者になりなさい。きれいな所だけでなく、汚い所も含めて相手をあるがままに受け入れなさいという模範をイエスは示されたのです。キリストの弟子として生きたいならば、傲慢に相手を見下し、相手を利用しようとするのではなく、謙遜な心で相手の前にひざまずき、相手のために自分を差し出しなさいということでしょう。「こんな私はなにも隣人にできない」と心配する必要はありません。たとえ目立たなくても、陰に隠れていても、神さまは隣人に向けられた愛を喜んでくださるのです。

イエスは、私たちの汚れを洗ってくださいます。その時に大切なのは、神さまの前に隠さないことです。もし、「私の足はけがれているので、ほかの人の足をどうぞ」と言ってしまったならば、せっかくイエスが足を洗ってくださるのに、イエスとの関係を拒否することになります。たとえ、どんなに汚れていようとも、そのままの姿を神さまにみせてもよいのです。「自分でできます」といって自分で洗うよりも、イエスに洗ってもらったほうが、よっぽど綺麗になるでしょう。何も隠さず、等身大の自分をみせるとは、イエスを信頼している、イエスを愛している、という意味なのです。

罪の赦しもそうでしょう。「私の罪は大きく汚れているし、ほかの人は赦されても、私の罪は赦されません」と、それ以外考えられない時があります。そんな頑なな私たちのために、イエスは、私たちの汚れや弱さも洗い流し、十字架の贖いによって赦してくださいました。「イエスの十字架によって私は赦されます。神さま感謝します」と告白することが、イエスを信頼していることなのです。自分で必死に修行をつんだり、背伸びして神さまの前で大きくみせようとする必要はないのです。神さまに赦された者としての使命は、「自分なんか赦されるはずがない」と思い込み苦しんでいる人たちに、神さまの無条件の愛、赦しの福音を伝えることでしょう。神さまの前で悔い改める時、神さまは必ず赦してくださるのです。

 

 今も「自分はくだらない存在だ。生きる価値はない」と思い込んで、嘆いている人は大勢いるでしょう。教会は、そのような人たちに、「あなたは神さまに愛されている、かけがえのない大切な存在。」と伝えることができます。どうか、この喜びが私たちを包み、一人一人が神さまの愛の中で、その人らしく生きられますように。イエスが、命を差し出してまで私たちを赦し、愛してくださったように、その赦しを心から信頼し、「私はあなたによって、赦されます」と、神さまを信頼できますように。


復活と3人の女性たち

安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

マルコ16・1-8 新共同訳

 

13人の女性

日曜日の朝、三人の女性はイエス様の葬られた墓に向かいました。しかし、墓は空っぽでした。イスラエルのお墓について説明させていただきますが、日本のような穴をほった墓ではなく、岩を横にほってできた洞穴でした。金曜日の、午後3時にイエス様はなくなりました。その後イエス様の遺体は、アリマタヤ出身のヨセフと、ニコデモがイエス様の遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだと、ヨハネによる福音書19章に記されています。安息日の土曜日には、「働くこと」「労働すること」などを禁止した宗教の掟があったので、今日の聖書箇所にでてくる女性たちは、じっと土曜日に我慢していたことでしょう。そのために、日曜日の朝はやく、もっとイエス様を丁寧に葬りたいと思ったと思います。当時の埋葬の習慣で、遺体に防腐作用のある香料や油を塗っていました。没薬やじん香とよばれる香料が、よく用いられていたそうです。それは、樹脂からとれるもので、樹脂を固めたものです。安息日が終わった、日曜日の朝に、女性たちはいてもたってもいられなく、イエス様のお墓に向かいました。お墓の入り口には、大人数でないと動かせないような岩がありました。しかし、それがどかされていた、というのです。日曜日の朝に女性たちは、イエスさまの弟子たちではなく、まずはじめに女性たちが、イエス様の復活を知らされました。

 

今回の聖書箇所では、イエス様の弟子たちはでてきませんがおそらく隠れていたのでしょう。イエス様を裏切って、逃げてしまった後悔で、「なんてことをしてしまったんだ」と絶望していたのでしょう。聖書には4つの福音書があります。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネです。イエスの生涯や教えなど記録されています。ルカ福音書によれば、イエスが裏切った弟子たちの前にあらわれ、「あなたがたに平和があるように」と挨拶していることが、ルカによる福音書2436節に書かれています。この言葉から、イエス様は弟子たちを、これっぽっちも憎んでいないことが伝わってきます。

 

2、信じられなかった

しかし、今日の聖書箇所を読んでみると、8節に女性たちは墓を出て逃げ去った、とあります。イエス様は復活したと天使に言われましたが、怖かったのです。女性たちだけではありません。10節以下に、マグダラのマリアは、イエス様の弟子たちにイエス様が復活されたことをつげましたが、弟子たちも信じることはできなかったと書いてあります。

イエス様が、生前、苦難にあい、三日目に復活することになっていると弟子たちに伝えた、とマルコによる福音書831節に書かれています。しかし、誰もそれを忘れて、信じることはできなかったのです。人は、なかなか自分の考え方を変えることはできないと思います。いくらイエス様が、「私は復活することになっている」と言われても、「復活なんて信じられない」と否定してしまうのです。人は、自分の考え方にこだわってしまう傾向があるのではないか、と思います。しかしイエス様は、信じてもらえなくも、弟子たちをあきらめることはしませんでした。そんな弟子たちであっても、それでもなおイエス様は一人ひとりを愛し、ゆるされました。イエス様は、人が最も弱く、歩みが遅い人であっても、その歩みに寄り添ってくださるのです。

 

3、出エジプト記

旧約聖書の出エジプト記14章に、エジプトで奴隷であったイスラエルの民たちが40年をかけて、現在のイスラエルの地までいくまでの道のりの、ひとつの場面が書かれています。誰もが、自分が先へと急いでいます。最も後ろは、高齢者や、子どもたちや、赤ちゃんをつれたお母さんがいて、早く走れない人がいたでしょう。「もっと早くないと、もっと強くないと生きられない」と思っていたかもしれません。現代も、もしかしたら、「強くなければ、私は誰からも愛されない」と思い、「あれもしなければ、これもしなければ」と焦っている時代かもしれません。

しかし、聖書を見ますと、

 

「イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、

移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち」

 

と、神のみ使いは後ろにいったことが出エジプト記に書かれていました。後ろのものを見捨てるのではなく、神様はもっとも歩みが遅い人であったとしても、愛し、守ってくださるのです。神様は、私たちの最も弱い場所であったとしても、弱さを排除するのではなく、優しく包みこんでくださる、天のお父さんなのです。

好きと愛は、漢字が示すように、好きは相手が自分に好ましいかぎり、好きになります。しかし、神様の愛とは、たとえ好ましくなくても、「あなたがあなたであるだけで」、あなたを喜び、受け入れてくださるのです。弟子たちは神さまと仲間と助けられ、世界へイエス様の福音と復活を、宣教していきました。

 

4、お祈り

お祈りとは、「今日も神さまが、わたしたちと一緒にいる。困ったときは、神さまがおられる。ずっと一緒にいて、助けてください」とお願いすることだと思います。「人は弱さをみせたらだめだ」と思い込み、なにもかも一人で背負いこむ必要はないと思います。神様は、「いつでも助けを求めていいんだよ、祈ってごらんなさい」と呼び掛けてくださるのです。祈りによって、「今日も一人でないんだ。助けあって生きてゆこうね」と、思えるのだと思います。神様は、「失敗したから、もうおしまい。あなたは弱いから、もうおしまい」とは言わない方です。イエス様は人の弱さを憐れみ私たちの罪をすべて背負い、わたしたちをゆるすために十字架にかかりました。最も大切なご自分の命を差し出してまで、私たちの罪をあがなうために、十字架の道へ進まれました。そして、3日後にイエス様は復活なさいました。私たちの世界は、「あなたはゆるされるんだよ」という世界になったのです。インドの土地で、最も貧しい人たちに仕えたマザー・テレサは、「失敗しても、また始めればいいのです」という言葉を残しています。おそらく、インドで最も貧しい人たちに仕えた彼女でさえ、時には間違えをおかしたり、葛藤したりすることがあったのでしょう。しかし、彼女は失敗をおそれていませんでした。神さまに愛され、神さまにゆるされている存在として、「失敗しても、それでおしまいでないんだ」という、神さまのゆるしを信じていたのだと思います。

 

5、パウロ

使徒の一人に、パウロという人がいます。パウロは、私たちが、それではどのような道しるべをもとにして歩んだらよいのか、書いています。パウロが、コリントという町に住んでいたキリスト者に書いた、第一コリントの手紙1229節で、「皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。」と言っています。みなが、モーセのような指導者になる必要はなく、一人ひとりが神さまに与えられた使命があることを、パウロは書いています。

聖書には、一人ひとりの多様性が書かれています。教会の庭には、いまチューリップが咲いています。多様性を考えますと、私は童謡のチューリップ思いだしました。チューリップの歌詞は、「さいたさいた チューリップの花が ならんだならんだ あか しろ きいろ どの花見てもきれいだな」という歌詞です。作詞者は、色々な色があるけれど、どの花をみても綺麗だな、と歌っていると思います。しかし人はつい、ひとりの色だけを目指してしまうことがあります。外交的な性格だけを目指してしまうことがあります。しかし、内向的な性格も、外交的な生活と同じで、大切だと思います。いろんな色を神様は作ったように、一人ひとりに性格があり、個性があります。神様は、一人ひとりを大切にお作りになり、「あなたで本当に良かった」と喜んでくださるのです。

花を創られた神様は、そこに咲いているだけで花を愛してくださる方です。花は動きまわることはできません。しかし、神さまはその花を愛し、存在自体を喜んでおられるのです。人も、何か特別なことをしたから愛されるのではなく、「あなたが、ただそこにいるだけ」で、神様は愛してくださるのです。失敗して転んでも私たちを心配し、「あなたがたに平和があるように」と声をかけてくださるのです。「私はゆるされない」と思う必要はなくなったのです。このイースターの朝から、ゆるしの世界がはじまったのです。タンポポはタンポポの花を咲かせ、バラはバラの花を咲かせ、人も一人ひとり神さまに造られた個性があり、異なった色を持っていると思います。赤や、白や、黄色。みんな違うけれど、ひとりひとりが神さまによって大切に造られた最高傑作です。もし、「こんな自分は嫌いだ」と、神さまがみたらどう思うでしょうか。神さまは、一人一人を大切に作られました。神さまにゆるされて、「こんな私でも神さまは愛してくださり、ゆるしてくださる」と確信してよいのです。復活したイエス様にゆるされて互いに助け合ってすごしてゆけるように、祈りたいと思います。