つながっていなさい

わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

ヨハネ15・4-5 新共同訳

 

つながっていなさい

旧約聖書の創世記には、「ノアは農夫となり、ぶどう畑を作った。 あるとき、ノアはぶどう酒を飲んで酔い」と創世記9章に記されています。洪水後、最初に作られたものが、ぶどう畑でした。イスラエルにおいて、ぶどう酒は長期保存できるものとして大切にされました。また、ぶどう園をイスラエルの民にたとえるのは、旧約聖書のイザヤ書5章や、詩編80編にもしるされており、ぶどうはイスラエルの民たちにとって大切な果物でした。

さて、今日のヨハネ15章は、イエスの告別説教とよばれる箇所にあります。13章で、イエス様は最後の晩餐で、弟子たちの足を洗いました。1330節で、「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。」とあり、それからイエスは弟子たちに、1726節まで語りはじめます。今日の聖書箇所は、その中に含まれています。

イエス様はまことのぶどうの木、そして、あなたがたは枝である。わたしにつながっていなさい、とイエス様はいいます。ヨハネの時代は、さまざまな情報が溢れていたのでしょう。第2ヨハネ19節に「だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません」と書いています。また、第一ヨハネ手紙218節には、「反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。 彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。」と書いてあります。イエスさまと違った教えを語る指導者やグループがいたのです。そのため、惑わされないで、まことに真実なイエス様にこそつながりなさい、とヨハネは語っています。

つながるとはヨハネ159節で、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」とありますが、「とどまる」という動詞と同じギリシャ語が使われています。先週の礼拝で、第1ヨハネ416節の「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」というみ言葉が与えられましたが、このとどまるという箇所も同じギリシャ語が使われています。愛にとどまるとは、何か必死になって新しい教えをつけたすのではないと思います。「イエスさまは、十字架で命を差し出してまで私を愛してくださっている」という、イエス様の愛を信頼することだと思います。

枝は自分で栄養を作り出すことはできませせん。木は根から栄養をすいあげ、枝全体にも栄養がまわってきます。自分の力だけで実をならせよう、と思っても枯れてしまいます。そのため5節では、「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」とイエスは言います。来月の5日は、ペンテコステですが、教会のはじまりも、神さまが聖霊をおくってくださってはじまりました。人間の才能やスキルに、どうしても頼ってしまいがちですが、イエスさまは「私を離れては、なにもできない」というのです。日々、聖書からきこえてくる神さまの愛を受け取り、「わたしは神さまに愛されている」と確信し、神様の支えによってこそ、人は神様の愛にとどまって生活できるのではないでしょうか。

 

 

・清さ

3節に、「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」とイエスはいいます。ユダヤ人によって、様々な掟をまもることによって、清いものとみとめられたのです。しかしイエス様の言葉によって、「あなたは清い存在だ」と呼び掛けてくださるのです。

ヨハネ13章では、イエス様は弟子たちの足を洗いました。今度は言葉によって「あなたがたは清い」といわれ、弟子たちはどんなに嬉しかったでしょう。マタイによる福音書8章では、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と頼んでいます。レビ記1345節~46節には、「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」と書いてあります。自分を汚れている、と言わなければならなかったことは、どんなに辛いことだったでしょう。しかし、イエス様は、重い皮膚病を背負った方に、「よろしい。清くなれ」と言われました。イエス様にとっては、当時の宗教で清くないとされていた方たちも、「あなたは清い存在だ」と受け入れました。「自分がしっかりしてなきゃ、実を結ばない枝として剪定される」とビクビクするのではないと思います。もしそうであれば、律法学者たちがしていたように、罪人と正しい人を区別する世界に戻ってしまうでしょう。イエスは、当時の律法にそっては、違反者でした。当たり前だとされていた常識を破ったからです。しかし、その常識というのは、人間の言い伝えであったりするのです。イエスは、重い皮膚病の人に清い、と宣言しました。神様の前であなたは受け入れられている存在、と宣言したのです。今日与えられた1ペトロ21節で、いろいろな偽善を捨てなさいとあります。「偽善」とは、ギリシャ語では、役者という意味からきています。自分を偽ったり自分を飾って、役者を演じることです。しかし、神様の前で背伸びして、自分を大きくみせようとしなくてよいのです。イエスさまは、子どもたちこそ神の国に近いと言われました。自分を大きくしようと背伸びしない子どもたちを、命そのものを神さまは愛してくださるのです。ただ、疑わずに信じる幼子のように、十字架で命を差し出してまで私たちを愛されたイエス様のあいを信じ、信頼すること。神様の愛に心を開き、「私は神さまに愛されている」と愛にとどまるとき、私たちは神さまから栄養が与えられ、豊かな実を結ぶことができるのです。

 

自分の役割

神様は「あれもこれも、1人で頑張りなさい」とは言われませんでした。1人で実をつけすぎたら、実が重すぎておれてしまうかもしれません。どんなに豊かな実を結んだとしても、枝にはたえられる限界があります。自分にあった実をつければ、神様は喜んでくださるのです。

8節に「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」とあります。ユダヤ人の世界では、学校にいったり、指導してくれる先生に學ぶことによって弟子になれました。しかし、福音書では、イエス様の呼びかけによって、弟子とされました。弟子の中には、ユダヤ教の枠から外されていた取税人も含まれていました。使徒言行録413節では、「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き」と書かれています。ペトロは、特別な学校にいったわけではありません。みんなから、無学で普通の人だ、とおもわれていました。しかし、イエス様は、ペトロたちを愛されました。神さまは、一人ひとりに神様の使命をはたすための賜物を与えられ、私たちを大切な神様の子供にしてくださり、弟子としてくださるのです。

イエス様は、マルコ78節で「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」 と言われます。私たちの社会でも、「これは常識だよ」と、どうしても枠を人はきめたがります。ユダヤ人たちはペトロたちが無学で普通な人であることは理解できなかったのです。「あんな人は弟子などなれない」と思っていたのでしょう。しかしイエス様は、人間の言い伝えではなく、神様の掟に立ち返れ、といわれるのです。社会では、私たちの常識では、たしかにそうかもしれないが、神様の御心はどうなのか、とイエス様は私たちに呼びかけているのです。そして、イエスは、「あなたは必要な存在だ。私の弟子になってほしい」と呼び掛けてくださるのです。その呼びかけは、私たち一人ひとりに呼びかけてくださるのです

 

イエス様は、「私の愛にとどまりなさい」といいます。それは、「あなたは神さまに愛された大切な存在だ」という呼びかけです。そして、神さまに愛されたものとして、互いに愛し合いなさい、と教えられます。私たちの周りに、もしかして「自分はつまらない存在だ」と思いこんでいる方がいるかもしれません。イエス様は、あなたが弟子となり、「あなたは神さまに愛されている大切な存在ですよ」と伝えることを、弟子たちに呼びかけているのです。神様の子どもとして互いに愛し合い、神様に与えられた使命を果たしてゆけるように祈りましょう。


互いに愛し合いなさい

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。

ヨハネ13:34-35 新共同訳

 

新しい掟

最後の晩餐の終わりに、イエスは新しい掟を与えました。それは、互いに愛し合いなさい、という掟でした。律法学者やファリサイ派は、神の栄光を輝かせるためではなく、自分を正当化させ、自分の正しさを自慢するために、神様の掟を利用してしまっていました。そして、上手に神様の掟を守れない弱い人たちに、罪人というレッテルを張り裁いていたのです。そんな状況の中でイエスは「互いに愛し合いなさい」という掟を弟子たちに与えました。この掟によって、人々を裁き、弱い人を否定し、自己を正当化することはできなくなりました。この掟に従うためには、互いに赦しあい、受け入れあい、愛し合うためだけです。

 

2、互いに愛し合う

それでは、どのようにして、互いに愛し合うことは可能なのでしょうか。それは、わたしがあなたがたを愛したように、というイエスの言葉にあるでしょう。神様は、私たちがたとえ弱く、不完全であったとしても、あなたがあなたというだけで受け入れてくださる方。チューリップの花がバラになれないように、神様は一人一人に種をまかれ、命を作られました。タンポポの種が自然にタンポポの花を咲かせるように、一人一人には、沢山の愛をうけ、自分らしい花を咲かせる希望に溢れています。なんで自分をこんなふうに作ったのか、否定する必要はないのです。なぜなら、神さまは手抜きすることなく、一人一人を大切な存在として、計画されて創造されたからです。もしかすると、その時に強さだけではなく、欠点や弱さもあえて造られたかもしれません。弱さがあるからこそ、私たちは助け合い、支え合う関係がうまれるからです。実際に神さまの計画は、弱さを通して、弱さがあるからこそ実現されるのです。

そのためパウロは、コリントの信徒への手紙12章で、次のように言ったのです。

 

「そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」といわれました」

 

律法学者のように、他人の弱さに指さしたり、裁いたりする必要はないのです。神さまが私たちを赦してくださったように、欠点や不完全さも神さまが与えてくださったものだと受け止め、ありのままの自分を受け止めてよいのです。

わたしたちができるのは、弱く不完全な自分を、そのままで受け止め、自分を創造された神さまに感謝することです。神さまは強さだけではなく、あえて一人一人に弱さも与えられました。人間が強さだけ持つのであれば、互いに愛し合い、支え合うことはできなくなるのです。人間は弱さを抱えているからこそ、愛し、愛されるという関係がうまれるのです。自分の弱さを受け入れられない人は、他人の弱さを受け入れられるでしょうか。自分の命の素晴らしさに気づいていない人が、互いに相手の命の素晴らしさを認めることができるでしょうか。

律法学者のように自分を厳しく裁き、「こんな程度ではだめだ」と思ってしまう人は、他の人にも同じような態度を取ってしまうに違いありません。隣人を愛するために、まず自分自身を愛することをはじめてよいのです。神様の愛に向かって、あなたを信頼できません、と拒否するのではなく、心を開き、ただ神さまの愛を受け止めるだけでよいのです。

 

3、隣人を自分のように愛する

神様が自分を受け止めてくださったように、私たちができることは、神様に与えられたその人をその人として尊重し、相手が自分に一番ふさわしい、その人らしい花を咲かせられるように応援することです。わたしたち一人ひとりに美しさがあります。

しかし時々、愛するといいつつ、自分の好みの相手に時々変えようとします。「もっともっと、変わったら相手にしてあげよう」と、変化を求めます。タンポポの花にバラを咲かせようとしても、失敗するだけです。神さまがその人に与えた種は、そのままで美しく、世界で唯一、最高の美しさなのです。

自分自身に対しても、わたしたちはつい、自分の価値を何かができることに求めてしまいがちです。しかし、わたしたちの価値はむしろ自分が自分であることから生まれます。神様に作られた自分を精一杯に生きている人は、たとえ誰からも見られることなく、世間の役に立たなかったとしても、それだけで十分に美しく、価値があるのです。本当に美しいのは、背伸びをしてできる自分を演じる人ではなく、精いっぱいに自分らしく生きる人なのです。律法学者やファリサイ派の人たちは、律法を生活の隅々に浸透させました。聖書を読み、神の前で誠実に生きようとしました。しかし残念なことに、律法を守れる自分を誇り、神様に愛されていることを忘れ、強くなければ愛されないと誤解していました。マルコ7章でイエスは、

 

「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。」

 

と言っています。しらないうちに、聖書の言葉よりも、現代社会の考え方や価値観が、私たちの生活に沁み込んでしまっている、というのです。

福音の喜びを忘れ、神様の愛は二の次で、自分の才能や強さにより頼んでしまうのです。「自分は何でもできる」と思い込んで弱点に気づくことができません。傲慢になって、自分のようにできない人を見下すようになります。自分がうまくいっているので、うまくいかない人たちの気持ちがわからなくなっていきます。この世の価値観で人間を見てしまい、お互いに評価しあい、あの人は律法を守れていない罪人だと裁いてしまうのです。もしそうだとすれば、まさに現在の律法学者やファリサイ派となってしまいます。人間の言い伝えや価値観より大切なのは、神さまの御心です。それは、聖書を通して、イエスの言葉や行動から、私たちは神さまの御心を知ることができます。イエスは、「わたしがあなたがたを愛した」といいます。それは、「あなたは、神様に愛されている神様の子供。かけがえのない大切な存在」なのです。ただ生きているというだけで、この一日は限りなく尊く、意味がある一日なのです。もちろん、神さまの前で誠実に生きようと心がけることは正しいことです。しかし、それだけに頼ってしまえば、「いつ私は赦されるんだろう。私は、いつ愛されるのだろう」と不安になってしまうのです。子供が親にびくびくするとき、おそらく親の愛を疑っているときでしょう。自分はよい子でないと愛されない。もっとよい子どもになって、親に認めてもらおう、と必死に努力するのです。

私は幼児教育にかかわったことが少ないので、詳しいことはわかりません。しかし、子供たちにとって大切なのは、「今の私を愛してくれている」という信頼でしょう。「あなたは、何かできたら素晴らしい」と言われて育ったら、何かできなければ自分には価値がない、と思い育つことでしょう。友達にも、「何かできなければ素晴らしくないよ。何かもっていないと、ダメなんだよ」と伝えるでしょう。命そのもの大切さを忘れて育ち、いつも何かを獲得しなければ自分を肯定できないようになるのでしょう。福音の喜びとは、「神さまが創造されたあなたの存在は、君が君だから素晴らしい」ということから生まれます。たとえ、弱く欠点を抱えていようとも、神はあなたを赦し愛してくださっているという確信です。

 

ヨハネの手紙の記者である、ヨハネは、419節で「わたしたちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです」といいます。イエスは、私たちを愛してくださっているというのは、いま生きている、この瞬間を「私はあなたを創造した。あなたをあなたとして、私は作った。私はあなたを愛している。」と呼び掛けです。ヨハネは「まず」と言います。神さまは、私たちが愛する前に、私たちを愛してくださる方。背伸びして自分を大きくみせようとしたり、他人と比べて自分を否定しなくてよいのです。イエスに愛されるために、何か特別なことをする必要はありません。神さまの愛は、たとえ何もできなかったとしても、一人一人を受け入れてくださるのです。愛は、力づくで勝ち取るものではなく、ただ心を開いて受け入れるものなのです。