2022年6月

朝早く祈るイエス

朝早くまだ暗いうちに、

イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。

マルコ1・35 新共同訳

 

とても静かな時間が流れています。せっかちな弟子たちとは逆に、朝早くからイエス様は人里離れたところに行き、祈っておられます。イエス様は、決して焦ることなく神様の前にたち、静まっています。イエス様の毎日の力は、この祈りにあったのでしょう。町から町へと宣教し、病気の人を癒し、その毎日のなかでイエスは、祈ることを忘れませんでした。イエス様は神様の助けをうけ、神さまのみ心を語りました。

 

ともすれば、人はこの社会にそまってしまい、神さまの言葉を忘れてしまいがちになるときがあります。社会にどっぷりつかり、社会の価値観にそまってしまうことがあります。神さまの思いではなく、自分の思いを優先して「こうでなければならない」と、決めてしまうことがあります。またそれは、隣人にも「あなたは、こうでなければならない」と求めてしまうことがあります。相手の期待にこたえようと、必死になってしまいます。しかし根深い自己評価の低さに陥っています。内閣府は2018年に、13歳~29歳までの男女を対象に「自分は役に立たないと強く感じますか」と調査しました。「そう思う」「どちらかといえばそう思う」を合わせて51.8%でした。若者の半分が、自分の存在を肯定できないことが調査からみえてきました。30歳以上の人には調査していないのでわからないのですが、「自分はつまらない存在なんだ」と思い、新しい1日がはじまっていくことは、とても苦しい気持ちを抱えていると思います。

 

イエス様自身も様々な人に誤解され、批判されました。マルコ321節では、「あの男は気が変になっている」と言われていたり、悪魔の頭にとりつかれている、などとも言われます。弟子たちに丁寧に教えても、最後まで誰が一番偉いかに夢中になっている始末で、最後には、すべての弟子から見放されました。しかしイエス様は、他人の評価には左右されずに、神さまの教えを伝える道を歩きました。そして、人を憎む悪の道ではなく、一人ひとりをこよなく愛されました。それは、自分自身が神さまに深く愛された存在であることを、よく知っていたからだと思います。ヨハネによる福音書159節で、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。」とイエス様はいいます。イエス様は、自分がどんなにおだてられたり、逆に批判されても、振り回されることはありませんでした。自分は、父に愛されている存在であり、その愛は変わらないものであると知っていまた。自分は神さまのものであることを知っていました。イエス様は、弟子たちに祈りかたを教えたとき、神さまを天のお父さんと呼びました。お父さんに対して祈る一人ひとりは、もはや他人ではなく、神さまの大切な子どもなのです。

 

旧約聖書の詩編5523節には「あなたの重荷を主にゆだねよ 主はあなたを支えてくださる。」と書いてあります。イエスさまも、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われます。背負い込んでいる荷物を、イエス様の前でいったん下ろしてゆっくり休める場所。それが礼拝だと言ってよいかもしれません。礼拝の中で、わたしたちは一週間で背負い込みすぎた荷物を軽くし、再びそれを背負って歩くための力を与えられると思います。すべての心配事を神様の手に委ね、神様の愛の中でゆっくり休む。それが礼拝の時ではないでしょうか。

 祈りの中で自分自身を振り返ると、わたしたちは自分が荷物を背負い過ぎていたことに気づくことがあります。「あれもしなければ、これもしなければ」と考えてしまいますが、本当に必要なものはそれほど多くないことに気づきます。また、自分の思い通りになることは、もちろん、心地よいことかもしれません。しかし、私たちの人生の道では、自分で計画していないことが、たびたび起こることがあります。しかし聖書には「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる」と書いてあります。神さまは、私たちの道を一歩一歩備えてくださる方です。たとえ自分の思い通りにならなくても、一つ一つを神さまに与えられたものとして感謝できるなら、悲しみも、喜びも、生活で神さまに与えられる一つ一つが恵みへと変えられるのではないでしょうか。

 

マルコ132節に、「夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。」とあります。ユダヤでは、夕方から新しい1日がはじまるので、安息日が終わったことを示しています。病人や悪霊にとりつかれたひとは、「こんな私はイエス様に近づけない」と、もしかしたら思っていたかもしれません。自分の未来をあきらめていたかもしれません。

しかし、そんな仲間をあきらめない家族や友人がいたのでしょう。「イエス様のところに行こう」と、連れてきてくれた仲間がいました。マルコ2章でも、体の麻痺をした人を4人の仲間たちが、イエス様の場所へ連れていく記事がありますが、マルコは、互いに助け合う人たちの記事を書いています。パウロも、フィリピの信徒への手紙 4:16で「また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。」とフィリピに住むクリスチャンたちに感謝をのべています。親が子どもを心配して食べ物をときどき送るように、フィリピの人たちはパウロを心配したのでしょう。もちろんパウロは、テント職人としての仕事もしていたので自分の力で自立することもできたかもしれません。しかし、パウロは病気を抱えていたと言われますから、もしかしてテサロニケにいるときは、体調が悪かったかもしれません。なににせよ、パウロは「自分でなんとかしていきますから、サポートはけっこうです」とはいいませんでした。

 

使徒言行録をみれば、パウロには様々な仲間たちや協力者がいました。英語の聖書ですと、パートナーというコトバが使われていますが、パートナーがいました。また、パウロ自身もエルサレム教会のためにも献金をささげ、サポートしあうように教会によびかけています。信仰とは、一個人で「一人でやっていく」というものではなく、互いに支えあい、祈りあっていくものであることが、聖書からみえてきます。パウロは、「私のために祈ってください」と頼む箇所が、1テサロニケ525節や、エフェソ619節にでてきます。パウロは、祈ってください、と助けを求めました。パウロは、祈り合い、支えあうサポーターをえて、宣教旅行にでるちからを神さまから与えられたと思います。マザー・テレサも、毎日たくさんの道で倒れている人をみてか、おそらく様々な試練がありました。その中でマザー・テレサは、「もし祈れないときがあったらどうするか、それは簡単なことです。もしイエスがこころの中にいるならば、彼に祈ってもらうことです。」と言っています。おそらく、マザーはすべてを神さまに捧げて、どうしようもなく道がみえないときは、イエス様にいのってもらったのだと思います。ルかによる福音書2232節で、イエス様はペトロに「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」と書かれています。イエス様は、わたしたちのために、祈ってくださり、信仰を支えてくださる方なのです。神さまが用いたパウロは、もともとはキリスト教会を迫害し、クリスチャンであるステファノの殺害に賛成しました。しかし、イエスさまは教会を迫害するパウロに、「なぜ私を迫害するのか」と言われたことが、使徒言行録に記録されています。パウロは回心し、キリストによってゆるされ、新しくやり直す力が与えられました。パウロと同じように、私たちも過去に縛られたり、過去の罪に縛られる必要はないのです。もしキリストのうちにあるなら、神さまはどんな状態であったとしても、キリストの十字架によって私たちをゆるし、私たちを愛してくださるのです。自分の弱さを隠したり、だれかほかの人に無理になろうとしなくてよいと思います。1人ひとりは、神さまの手によって作られ、神さまは「あなたで良かった」と喜んでくださるからです。信仰生活の喜びは、私たちがなにかをする前に、神さまが私たちを愛してくださっている、愛されている喜びにあると思います。

 

悪霊にとりつかれた人がどのような存在であったか、マルコ5章以下の記事には、悪霊にとりつかれた一人の状態がかかれています。

「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。 これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが・・・だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。」と、聖書に書いてあります。

ゲラサはガリラヤ湖の南東にある、異邦人の地域でした。このゲラサ人はとても深刻な状況にあります。町の外の墓場にすみ、コミュニティーから隔離されていました。また、石で自分を傷つけていました。この状態は、自分の力ではどうにもならないことをあらわしていると思います。イエス様は、この悪霊にとりつかれた人を癒します。35節に、「悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て」とあります。彼はイエス様によっていやされ、自分を取り戻しました。人は忙しいとき、つい一人を忘れてしまいます。数や大きさを優先して、小数の意見をもつ人を忘れてしまいがちです。しかし、イエス様は違いました。たった1人の人のために足をとめてくださるのです。福音書を読むと、イエス様はしばしば人々のために、足を止めてくださる場面がでてきます。ペトロのしゅうとめのために足を止めてくださり、静かな祈りのときもペトロに「みんなが探しています」と祈りを中断されたにもかかわらず、イエス様はペトロの問いかけに耳を傾け、答えています。イエス様は、私たちがどんな状態にいようとも、私たちに耳を傾け、立ち止まってくださり、話を聞いてくださるのです。

 

使徒413節では「人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った」と書かれています。「ただの人」というギリシャ語は、第2コリント116せつでパウロが「話し振りは素人でも」の「素人」という箇所でも使用されています。パウロは、第二コリント1010節で、

わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいる、

 

と言っています。パウロは、強さだけではなく、弱さを抱えた人間でした。パウロは、自分のとげを取り去ってくださいと、神さまに祈りました。とげとは、おそらくなんらかの病気をパウロは抱えていたと言われますが、神さまはとげを取り去ることはありませんでした。病気があれば、体調がよくないときは、福音宣教に支障がでたかもしれません。健康であれば、弱さがなければ、もっと力強く、宣教できたかもしれません。しかし神さまは、「わたしの恵みはあなたに十分である」と言われましたら。私たちも、イエス様の前で、自分を守るために、強がったり身構える必要はないのです。私たちは社会に属しつつも、神さまのものであるからです。神さまの前で祈るとき、様々な背負っていた余計な荷物をおろし、シンプルになった自分を感じるのではないでしょうか。「あれもなければ、これもなければならない」という焦りを捨て、神さまの前に荷物をおろしてよいと思います。私たちも、静かな場所で神さまに向き合い、神さまに祈るところからはじめてゆきたいと思います。


イエスが洗礼をうける

そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

マルコ1・9-11 新共同訳

 

1、イエスの洗礼

イエスが洗礼を受けたのは30歳ころです。イエスが洗礼を受けたとき、もう一人の立派な大人でした。青年ではなく、その当時は壮年だったことでしょう。ナザレという山奥の村で結婚はしないで、コツコツと大工の仕事をして、母マリアや家族を支えたのでしょう。

これは、想像にすぎませんが、ヨハネの元で洗礼を受けたのは、神の前にひざまづき、「自分の人生は本当にこれで良かったのか」尋ねてみたかったのではないかと思います。そう問いかけるイエスに、神様は「あなたはわたしの愛する子。わたしの心にかなう者」という声が天から響きました。「わたしの人生は、本当にこれでよいのでしょうか」と問いかけるイエスに「あなたの人生はそれでよい。あなたはよく頑張った」ということです。イエスは、神の愛に満たされ、神様の子供としての誇りを取り戻したことでしょう。そして、救い主としての第一歩を踏み出したのです。神さまの前にひざまずき、イエスの名によって洗礼をうけるときに、私たちの心にも、「あなたはわたしの愛する子」という言葉が響くのです。その声をきくとき、私たちの心は神の愛で満たされ、わたしたちは新しい命に生まれ変わります。

「あなたはわたしの愛する子」という天からの響きは、私たちが自分の罪深さを認めて神の前にひざまずくたびに与えられます。罪に気づく時こそ、救いの関係の出発点。心の底から悔い改めるなら、神様はどんな罪でもゆるして下さいます。最後まで自分をゆるせないのは、私たち自身です。

人間関係がうまくいかなかったり、仕事で大きな責任を任せられた時、「自分ではもうできない」と逃げたくなるときがあります。しかし、自分ではできないとき、そこで終わりではありません。自分の限界に気づいたとき、いよいよ、そこからが神様の出番です。「神様、私には限界です。あなたに任せました」と祈るとき、神様は私たちに力を与えてくださるのです。もう無理だと思った時こそ、神様の出番です。神様にゆだね、自分が今できることは精一杯すること。それが一番です。

 

2、洗礼の使命

 イエスは、「あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」と、マタイによる福音書28章でいいました。福音宣教とは、自分の才能や力でするものではないことがわかります。自分の名によっては何もできないのは当然なのです。父と子と聖霊の名によってなら、できないことは何もないのです。たとえどんなに大きな過ちを犯し失敗したとしても、神の前で悔い改め、神さまの十字架の赦しを信ずるとき、「あなたの罪は赦される。あなたは愛されている、かけがえのない神さまの子ども」と呼んでくださるのです。福音宣教は、イエスの福音を伝えることです。あなたがたに命じておいたことの一つに、イエスは神さまに作られたすべての人の命を大切にされたことがあるでしょう。イエスは、職業や病気によって差別されていた人たちの手をとり、「私なんか生きている価値がない」と思い込んでいて人生に絶望しかけた人に、「あなたはかけがえのない大切な存在」と、イエスは伝えたのです。

ルカ15章では、迷子になった1匹の羊にたとえがでてきます。羊飼いは100匹羊を飼っていて、99匹を残して、1匹を探し回る羊飼いのたとえを話されました。迷子になった一匹は、99匹という数に比べて、小さく弱く、はかない存在です。「あんな一匹くらいどうでもいいじゃないか。迷子になったほうが悪いのではないか」という声が、現代の価値観から聞こえてきます。利益から考えると、99匹を守る方が圧倒的に得でしょう。しかしイエスは、1匹を探しまわるのです。これらの話が教えてくれるのは、神が人間の一人ひとりをどれだけ大切に思っているかということ。これらは、神のいつくしみのたとえ話なのです。

私たちも、迷子になる時があります。自分自身を見失い、不安に襲われ、将来を心配するときがあるかもしれません。それでも、耳を澄ますと、私たちを探し出してくださるイエスの声が聞こえてきます。慌てずに、ゆっくり立ち止まり、耳を澄ましてみましょう。「あなたは、神さまに愛されている、大切な神さまの子ども」。イエスは、私たちが見つかるまで、探しだしてくださるのです。

 私たちには、神さまの子どもとして生きられる喜びがあります。父なる神に委ね、イエスの神の愛を受けて、「あなたはわたしの愛する子」と呼ばれる喜びがあります。何もできなくても、自分が自分であるというだけで無条件に愛されている。心の底からそう感じるとき、わたしたちは神の愛と出会っているのです。神さまの愛で満たされるとき、「これを手にいれなければだめだ」「もっと人から評価されなければだめだ」。そのような思い込みが消えてゆきます。自分は神から愛されている、その事実だけで十分に満足なのです。

 

3、荒れ野という場所

洗礼をうけたあと、イエスは荒れ野に導かれました。荒れ野は、なにもないところです。おそらく、厳しい自然の中で、人間の弱さに直面したでしょう。神様はイエスを福音宣教のはじめに、荒れ野という場所で準備をさせました。それは、あらゆる誘惑に直面することによって、人間の弱さと神の教えの正しさを、身をもって味わうためだったのではないかと思います。イエスは、荒れ野に導かれ、「人はパンのみで生きるのではない」といいます。現代社会は「あれも手にいれなければ、これも手にいれなければ」と焦ります。しかし、どんなに物に満たされていても、人間は神の言葉によって養わなければならない限り、決して幸せになれないように思います。何かしなければ神様に愛されないのではなく、たとえ何もなくても、自分が自分であるだけで受け入れられ、一人一人は神様に愛されている神様の子供と呼ばれるのです。

  荒れ野をでたイエスは、マルコ6章で「そのとき、イエスは十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。」と言われました。普通なら、何か持っていたほうが、宣教の役にたつような気がします。しかし、イエスは、自分の持ち物ではなく、徹底的に神様により頼みなさいと、弟子たちに教えました。たとえ、小さく、弱く、欠点を抱えていようとも、神様は私達一人一人を、それぞれ違う場所で用いてくださり、必要としてくださるのです。十二使徒たちは、それぞれに違った職業や考え方を持っていましたが、キリストにおいて支えあい、助けあっていました。「あの人にはできて、自分にはできない」と嘆く必要はないのです。一人一人は、神様にできることと、できないことが与えられているのです。一人一人できる役割は違ってよく、他人をねたんだり、比較して自分を否定しなくてよいのです。私たちは、時に荒れ野に導かれる時があります。しかし、どんな場所にいようとも、 神様はその場所を成長のために用いてくださいます。どんな時も神様に感謝し、どんな時も道を準備してくださる恵みを思い、深呼吸して自分らしく、隣人と助け合って生活できるように祈りましょう。